わずか1年で夢破れ
第2次政権では「高支持率」路線に

 第1次安倍政権時の安倍氏と「お友達」たちは、一言でいえば不器用であった。だが、政策実現、改革への志は間違いなくあった。

 また、当時の安倍氏は「空気を読まない総理」だと批判されていた。記者会見では、首相の説明がまどろっこしく、何を言っているのか分からないといわれた。ただ、安倍氏は「国民に丁寧に説明しなければいけない」と言い、それでも熱心に語り続けた。

「マスコミではなく、国民に直接語りたい」とも言い、質問をした記者ではなく、TVカメラに目線を向けて話した。ところが、それはTVを見ている国民に「安倍氏は疲れて視線が宙をさまよっている」という印象を与え、さらなる批判を呼んでしまった。

 こうしたエピソードからも分かる通り、当時の安倍氏は不器用な姿をさらけ出す場面があった。だがそれは、国民に対して誠実な姿でもあった。おおらかで明るく、「美しい国、日本」の理想を素直に追った。

 正面からぶつかれば理想はかなうと信じた、政治家一族の“お坊ちゃま”。おそらく、これが本当の安倍晋三という人だったのだと私は思うのだ。

 一方、12年に発足した第2次政権時の安倍氏は、前回の失敗の経験をうまく生かし、高支持率を維持する手腕を身に付けていた。第1次政権の失敗から「やりたい政策」のためには、高支持率を維持することが大事だと考えたようだった。

 政権を奪還した安倍氏の目には、「失われた20年」で長年にわたるデフレとの戦いで疲弊し、「とにかく景気回復」を望む国民が映った。

 そこで安倍氏は、高い内閣支持率を得るには、とにかく国民をこの疲弊から解放することだと考え、「大胆な金融緩和」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」からなる「アベノミクス」を発表。公共事業や金融緩和を派手に断行した(第75回)。

 この戦略は結果的に「当たり」となり、高支持率の獲得に貢献した。こうした第2次安倍政権の世論に対する敏感さは、当時首相側近だった加藤勝信氏に課せられた役割にも表れている。

7つの顔を持っていた加藤・元一億総活躍相
その真の役割は「支持率調整役」

 加藤氏は当時、「一億総活躍相」に起用されたほか、「女性活躍担当」「拉致問題担当」など7閣僚を兼任していた。

 こうした1つ1つの担当業務には全く関連性がないように見える。だが実は、7つの業務には「国民の支持を受けやすい課題」に向き合っているという共通点があった。

 これが意味するところは何かというと、あくまで筆者の見立てだが、加藤氏の真の役割は「支持率調整担当相」だったといえる。

 加藤氏は首相官邸に陣取り、支持率が下がりそうになったタイミングで、国民に受ける施策を発表する役割だったということだ。

 実際、加藤氏は、内閣支持率回復のために「女性の活躍」と「子育て支援」に焦点を当てた。これは、ネット上で待機児童問題に関連して「保育園落ちた日本死ね!」という書き込みが広がるなど、政権に対する批判が強まったからだった(第122回)。