一人の人間という存在は、全体における“つなぎ目”
社会とのつながりを実感できるのは、バーチャルではない、リアルな世界での“他者との対面”だろう。会うことを切望していた人や思いがけない人との出会い――大切な人を失って映画監督になった坂田さんは、一変した人生のなかでさまざまな人たちとの出会いを重ねている。対人関係で、坂田さんが心がけていることはあるのだろうか?
坂田 どんな人でもいろいろな側面を持っていますから、好き嫌いの判断をすぐにはしないですね。内外の政治家たちも、誰もが良い面と悪い面を併せ持っていて、時代の状況や社会環境によって、その人の一側面が強くなったり、大きく伝えられたりすると考えるので、私は、先入観や偏見や人の意見で「この人は嫌い」「この人は間違っている」という見方をしないようにしています。相手のポテンシャルを知ることが大切だと思います。
私は、いろいろな側面を持つ人との出会いを求めているのでしょう。ドキュメンタリー映画を撮らなければいけないという使命感よりも、人との出会いが映画創りにつながっていく。普段、私は山の中の家で一人暮らしをしていますけれども、世界各地でいろいろな人と出会い、そのときの思い出やそこでつながった人たちが私を支えてくれています。
坂田さんが著した書籍『花はどこへいった 枯葉剤を浴びたグレッグの生と死』*6 にはいくつもの印象的な文章がある。たとえば、カンボジアで美しい織物を見た坂田さんはそのときの思いをこう記している――「東南アジア、いや世界がすべて、この織物に重なって見えることがある。さまざまな色合いや濃淡に染められた糸がどんな模様を描き出すのか、完成品は熟練したものの目にさえ予測できない」
さまざまな個人がそれぞれの生活を営む集団では、多くの衝突が生まれる。人という糸が紡ぎ出す社会という織物は、完成された美しさをなかなか持ち得ることができないようだ。
*6 書籍『花はどこへいった 枯葉剤を浴びたグレッグの生と死』(坂田雅子著 2008年11月 トランスビュー刊)
坂田 『沈黙の春を生きて』を創ったとき、レイチェル・カーソンさんの言葉に鼓舞されながら、私はさまざまなインスピレーションを受けました。彼女は、「ウェブ・オブ・ライフ」――「生命の網の目」という言葉を使っています。この世の中のものは、自然界も人間界も、人間同士もすべてつながっているのだ、と。すべてのものがつながっているなかで、一人の人間という存在は、その「つなぎ目」なのだと思います。森羅万象とつながっている一個の生命はその人だけのものではなく、一人で完結するものではありません。かつて、禅寺でこんな話を聞きました。ある山寺の和尚さんが夜寝ていたら、ザワザワと音がするので、何の騒ぎだろうと思って外を見たら、庭のカボチャたちが言い争っていた。それで、和尚さんが、「そんなことで言い争うんじゃない。自分の頭の上に手を当ててみろ!」と。それで、カボチャたちが手を当ててみたら、みんながツルでひとつにつながっていた……。