メッセージを発信することの責任を感じながら…

“生まれ育った田舎からの脱出願望”があった坂田さんは高校在学時に交換留学生としてアメリカ本土の空気を吸った。その経験がグレッグさんとの出会いにおいても大きかったようだ。

坂田 留学先のアメリカから帰ってきた私は、当時の日本の社会に閉塞感を覚えていました。そうしたなかで、ベトナム戦争の帰還兵であるグレッグがとても新鮮に見えたのです。知らない世界を運んできてくれる新しい風のように思えました。

 いま振り返れば、AFS*7 での留学がとてもありがたかったですね。その年で100人くらいの学生がアメリカに行き、現在でも留学仲間が集まります。高校生の年齢でまったく新しい文化に触れたことで視野が広がり、国と国の境界線が薄まるのを感じました。

*7 AFSは、第1次・第2次世界大戦中のボランティア組織American Field Service(アメリカ野戦奉仕団)を活動の起源とした世界的な教育団体。異文化学習の機会などを提供している。

 坂田さんが留学生として暮らした場所は、人口3000人ほどの小さな町*8 で、当時はまだ2人目の留学生の受け入れとして、初めての女子学生だったという。町を挙げての歓迎ムードで、坂田さんは異文化に心地よく触れることができた。

*8 アメリカ合衆国メイン州ノックス郡にある町・キャムデン(カムデン)。メイン州の最大都市ポートランドから車で90分ほどの場所にある。

坂田 その頃は第2次世界大戦の終戦から20年ほどしかたっていなくて、アメリカには、日本のことをよく思っていない人もたくさんいたはずです。町の皆さんは広い心で受け入れてくださったのだと思います。当時(1960年代半ば)の国際情勢を思い浮かべて、「17歳で、よくアメリカに行ったね。誰も知らないところで心配はなかった?」とおっしゃる方もいますが、私は、心配どころか、ウキウキ気分で何も知らない世界に飛び立っていきました。

 坂田さんは、書籍『花はどこへいった 枯葉剤を浴びたグレッグの生と死』の〈あとがき〉でこう書いている――「メッセージを発信することの責任も感じる。責任を感じるということは、また生きがいにもつながる」。

 この一文から14年……まだまだ伝えるべきメッセージがあるという思いから、『失われた時の中で』が世に送り出された。責任と生きがいがある限り、映画制作への坂田さんの情熱は決して枯れることがないだろう。夫・グレッグさんへの想いとともに、“映画監督・坂田雅子の旅”は続いていく。

坂田 私は組織にも属していないし、資力もありませんが、一個人が映画という手段を通じて、何かをメッセージできることは素晴らしいと思っています。ただ、誰でもメッセージを発信できる時代だからこそ、それをどう受け止めるかという“考える力”が、一人ひとりに問われています。

 私の映画創りは、「こういうことを伝えたい」というよりも、まずは、「自分が知りたい、見てみたい、行ってみたい」から始まります。そこで知り得たことを、映画という形で分かち合う。だから、旅をして、人に出会って、新しい何かを知ることが私の映画創りの源泉になります。そして……“どう伝えていくかというストーリー作り”が私は苦手なので、それがこれからの課題だと思っています。

ドキュメンタリー映画「失われた時の中で」が教えてくれる、明日への希望

失われた時の中で

監督・撮影:坂田雅子
2022 年/日本/60 分/日本語・英語・ベトナム語・フランス語/ドキュメンタリー
配給・宣伝:リガード
©2022 Masako Sakata
8/20(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開

インタビュー参考文献
『花はどこへいった 枯葉剤を浴びたグレッグの生と死』 坂田雅子 著
『あの日、ベトナムに枯葉剤がふった 戦争の傷あとを見つめつづけた真実の記録』 大石芳野 作/写真
『戦場の枯葉剤 ベトナム・アメリカ・韓国 グラフィック・レポート』 中村梧郎 著
『母は枯葉剤を浴びた ダイオキシンの傷あと』 中村梧郎 著
『ベトナム戦争 民衆にとっての戦場』 吉澤南 著
『ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ 歴史と影響』 レ・カオ・ダイ 著、尾崎望 訳