就職したら絵が描けないからと起業
しかし1秒も絵を描く時間がなかった

画材

弓指 誰もが皆、共感するわけではない部分。「それらしいストーリー」に沿っていないので表には出ない。報道もされない。普通なら社会の中で忘れられてしまう。でもその言えない思いや感じたことも、「震災の記憶」であることに変わりはないんですよね。

 そのような出来事や感情が、ただただ興味深く、絵で残したいと思うんです。

 もともと、名古屋で映像制作の会社を経営していました。「絵を描きたいけれど就職したら時間がなくなりそうだ。でも生活費を稼がなければならない。それなら起業しよう。起業すれば時間をコントロールできる」と、すごく安直な気持ちで、大学院修了と同時に起業したため、経営や営業の知識や経験はおろか、社会のことを何も知りませんでした。

 映像制作会社とCG制作会社に就職していた同級生たちが会社を辞めたがっていたので、「僕が営業をやるから、映像制作の請負をしよう」と誘って、ど素人3人による会社経営が始まりました。

 ところが、経験もないので見積もりの出し方がわからない。相場がわからないから、金額設定もわからない。労力ばかりかかって、むちゃくちゃ安い金額で仕事を受けてしまったり、工数のものすごく多い仕事を一度にたくさん受けてスケジュールがぱんぱんになったりと、3年間、本当に大変な思いをしました。毎月どうやってスタッフのお給料を出そうかと、お金のことしか考えていませんでした。当然ながら絵を描く時間なんか、1秒たりともありませんでした。

 でもなんとか事業を軌道に乗せることができて、起業時に日本政策金融公庫から借りた300万円を完済することができた。すると、公庫の担当者が「返済実績があるから、次は2000万くらい貸せますよ」と言うんです。

「もし、ここで2000万借りてしまったら、返すのに、また働きづめで抜け出せなくなる。絵を描くために起業したのに、何をやっているのだろうか」と悩み、「もうやめたい」と思ったんです。

 継続案件だけで会社が存続していくめども十分立っていたので、他の4人に後を任せても迷惑はかからないだろう。何度も引き止めてくれましたが、それだけ絵をやりたいならと、背中を押してくれました。彼らには今もよく会うのですが、会社は順調に続いていて、むしろ私がいたときよりよっぽど調子がいいんですよ(笑)。

芸術家をめざして上京
直後に母が自殺

弓指 名古屋の美術のマーケットは小さいので、このタイミングで東京に出るのがいいと思ったのですが、いかんせん、ツテがまったくない状態です。

「とにかくどこかのコミュニティに属したほうがいいだろう」と考えていたとき、(批評家・作家の)東浩紀さんが主宰する「ゲンロンカフェ」が「ゲンロン新芸術校」というアートスクールを始める、その1期生を募集している、という告知を見て、何も把握していないまま、とりあえず申し込んで上京しました。

 ところが、入学して4カ月たった頃、母が交通事故に遭いました。そして、そのときの後遺症がもとで、自殺してしまったんです。

鳥の絵

 私はとてもショックで、「アートとかやってる場合じゃない」と、絵をやめようと思いました。出棺の時、何となく鳥をモチーフにした絵を描いて、母の棺桶の中に入れました。

 その後、新芸術校の先生に話を聞いてもらったりするうちに、「『自殺』ってタブーになって、その人のことを誰も語らなくなる。それでは、その人の人生がまるごと否定されたみたいだ」という話になったんです。

「直接的に話をするの形ではなく、絵やアートという形なら、タブーとされたことでも『語る』ことができる」と思い立ち、このモチーフで作品づくりをしよう、これしかない、と考えるようになったんです。

 それで、母の自死をテーマにした「挽歌」という作品を描き、その翌年の春、新芸術校1期生の成果展に出展したところ、金賞(最優秀賞)に選ばれて、芸術作家としてデビューしました。

――身内の不幸や自殺をテーマにすることに迷いはありましたか?