「生の現実」を抽象化して
「ちょうどいい塩梅」を探る

弓指 報道では「事故に巻き込まれて6人の子どもが亡くなった」とひとくくりにされますが、「死」だけがクローズアップされるのではなく、子どもたち1人1人の「生」を知ってもらいたいと思ったんです。

 亡くなるまでにも人生があって、悲しいことだけではなくて、それぞれに、楽しんだこと、うれしかったこともあったはず。そのディテールを描くことで、ただ悲しい出来事だった、その後は遺族だけが胸の中にしまっておく、で終わることのないようにしたいと思ったんです。もちろん、遺族の方々も作品を見ますので、悩みながら制作しました。

 そして、交通事故というのは、殺人と違って、相手へ悪意があるわけではない。加害者側の立場を考えることも重要だと考えました。ところが、加害者側の状況や心境はなかなか報道されません。そこで、加害者の方にも会って話を聞いてみようと思いアプローチしたのですが、手紙のやりとりしかできませんでした。でもそれもまたリアルだと思っています。

 そして、被害者と加害者という二項対立以外で、この作品でもうひとつ注目してほしい構図が、車の存在です。車というのは、悪意がない人を加害者にすることもできるし、その逆も起こり得る。車は人生を豊かにする半面、恐ろしい機械でもあります。

 単に「被害者がかわいそう」「加害者が悪い」だけでなく、ある出来事の中には、さまざまな要因や構図が潜んでいる。もっと細部がある。そういう構図を意識した展示にしました。

「この展示、絵ではなく写真ではだめなんですか?」と聞かれたことがあります。でも、事故で亡くなった子どもたちの生前の姿を写真で見せようものなら、生々しすぎて、悲しすぎて、普通は直視できませんよね。「絵」という表現を通し、ワンクッションおいて見ることで、そして、子どもが書いた詩などの、たしかに生きていた痕跡を添えることで、見る側も、その子どもたちの生きている姿を、歩んだ人生を、想像することができる。

「生の現実」をちょっと抽象化するんです。「似顔絵」とも違うのですが、写真で見る本人の顔よりも、絵で描かれたイメージのほうが逆にその人を想像できる。そのような、作り手が一方的に押し付けるのではなく、「鑑賞者と作り手にとって、ちょうどいい塩梅」というのをいつも探っています。

 展示が終わっても、私の作品と私の生活は地続きです。毎年、この事故の被害者のご両親にも会いに行っています。3年たつと、もうその場は、子どもの思い出話だけでなく、家族間の愚痴を聞く場になったりしています(笑)。そういう意味では、今はいない子が、私とその方たちとの新しい関係をつくっている。死は終わりではなく、その先へとつながるんです。

絵を解説する弓指さん

――(アトリエ内にある制作中の絵に対し)あの絵に描かれているのは岡本太郎さんですよね。岡本太郎記念館で開催中の展覧会「饗宴」では展示しなかったのですか?

弓指 これから飾るんですよ。展覧会が始まり、在廊してお客さんの様子を見ていたり、話したりしていると、展示当初は、どこかお客さんが楽しめていないような、そのような引っかかりがあったんです。SNSをチェックしてみてもあまり感想が上がっていない。それで観察を続けていると、あることがわかってきたんです。