現地で観察し、お客さんの声を参考に
展示内容を進化させる「生きた展示」

絵のラフ

弓指 岡本太郎記念館を訪れる人は、美術のファンでも、岡本太郎の熱狂的なファンだけでもなく、何となく用事や買い物で表参道を訪れて、その延長で訪れている人がほとんどのようでした。そして、入館するとグッズ売り場を見る。そのついでに企画展を見たりします。

 ですので、今回の私の展示のように、「岡本太郎という芸術家を知っている人が見に来る」ことを前提とした作品を見てもピンと来ないのは当然です。

 現代アートはよく、「自由に見て好きに感じて」と、あまり作品について説明をしないことが多いのですが、「好きに感じて」と言っても、意味がわからなければ、何も感じずにそのまま通り過ぎてしまいます。であれば、展示に根本的な変化を加えるしかない。

 そのため、たとえ、(岡本太郎の代表作の)「明日の神話」を知らない人が見てもわかるよう、岡本太郎がそれを描いているシーンの絵を追加しました。また、当初は絵と説明文が相互補完的になるようなキャプションを絵に添えていましたが、「太郎さんがベッドで寝ている絵」のように、ストレートな説明に変えました。

 美術鑑賞の従来の価値観では、キャプションが説明的すぎておもしろくないと言われるかもしれません。でも、岡本太郎記念館を訪れるお客さんの視点を考慮するなら、その方たちが見てわかる、楽しめる展示が必要だと思ったんです。

――開催当初から絵が増え、配置やキャプションも変わっていくなど、まさに「生きた展示」ですね。

弓指 展覧会の多くは、展示前にプランをつくり、搬入してプラン通りに配置すれば、あとは会期終了まで見守るだけです。でも、お客さんの反応を見ながら展示を変えていくと、狙ったような感想がネット上に上がり始めました。

「渋谷に遊びに来て、たまたま岡本太郎記念館に寄ってみました。アートには詳しくありませんが、岡本敏子さんのような人がいたからこそ、岡本太郎さんの作品が今でも残っているのだということに気付かされました」(※本展では、岡本太郎の秘書として公私を共にし、太郎没後は、太郎の芸術の「復活」に向けて奔走した、岡本敏子の人生をテーマにしている)といった模範解答のような感想を頂戴して、うれしい半面、ストレートすぎて展示としてこれで良いのだろうかと悩むほどでした(笑)。

現代アートのためにやっているのではない
ただひたすら自身の興味と向き合う

――現地で観察し、マーケティングして、アジャイルで柔軟に変えていく。自身の伝えたいことだけを一方的に展示するのではなく、それが伝わるように鑑賞者側の観点も大事にする。そのような柔軟性を持ち、対応できるのは、会社経営の経験が生かされているのでしょうか?

弓指 起業はシンプルに生計のためで、当時は「このまま続けても意味があるのだろうか」とつねに葛藤を抱えながらやっていましたが、たしかに、今の作品づくりや展示の構成に、そのときの経験が生かされているところもあるかもしれませんね。

 現代アートというのは、やはり、ある種の「権威」になってしまっている部分があると思うんです。

 アーティストと鑑賞者に上下関係が存在している。鑑賞する側も自らの立場を下であると思い込み、アーティストを神格化し、そうした構造に結果的に加担してしまっています。

 でも、「展示がおもしろくない」といわれたら元も子もないですからね。お客さんに紛れて生の感想を聞いたり、お客さんの立場で客観的に鑑賞してみたことで、私自身も知らず知らずにそうした構造を強化しようとしていたことに気付かせてもらえました。

弓指さんの家族の写真

 最初は創作の原点が「母の死を悼む」という内発的な動機からでしたが、その後、変わってきました。今は外発的な関心から創作意欲が高まることがほとんどです。

 題材になってくれるような何かに出会って、興味をひかれる。それは人の生死に関わる出来事が多いのですが、人が死ぬことはつらいし悲しい。でも人は死んだら終わりではなく、その死は誰かの生を育むこともあるということを伝えるために、ただひたすら目の前の作品に取り組んできた気がします。

 こうした私の活動が「アート」と呼ばれるかどうかは関係ありません。現代アートのためにやっているわけではないんです。これからも、私自身が、興味深い、おもしろいと思ったことにアプローチしていきたいと思っています。