「執着しない」が幸運を招く

 例えば、身近なところでいえば、私の娘がどうしても欲しいと長く探し回っていた物がなかなか手に入らずにいて、あきらめかけていたのですが、何の気なしに行った場所でふと目を向けると、より良い物が手に入ったということがありました。
 これと同じことが仕事や人間関係の問題にも起こります。

 これまでに私にいただいたご相談の例からお話しするなら、この仕事に就きたいと強く望んでも、あと一歩のところで実現できないということを繰り返す方がいました。
「少し待ちましょう。本当にご自分を生かせる場は、ここではないかもしれませんよ」と申し上げ、その方も気持ちを静めてお参りされたところ、改めて落ち着いて視点を変えて考えることができ、新たな選択肢があることに気づかれました。

まさに「神わざ」といえる出来事

 また、お金をめぐる問題のある男性にもかかわらず、「どうしてもこの人でなければ」と執着して泥沼状態におちいり、ご相談にいらした女性がいました。

 良くない縁であることをお伝えしたものの、思い詰めている彼女に人の言葉は届くことはなく、彼との縁を願って、縁結びの神様に熱心にお参りをされたそうです。
 ところが、その女性からある日、「彼と別れて違う方との良縁に恵まれた」とのお手紙が届いたのです。聞けば、縁結びの神様へのお参りのあと、なぜかさっぱりと彼への気持ちが消えたとのことでした。

 これこそが、神わざ、仏様のわざというべきものなのでしょう。
 強く執着する人間の気持ちを変えることができるのは、ご神仏だけです。

 彼女が祈ったのは、問題のある交際相手との縁でしたが、熱心に「良縁」を願う気持ちは真摯なものでした。ご神仏は、その執着を手放すようお導きくださったのでしょう。
 執着が消えたところで、彼女は良い相手と出会えたのです。

愛されていると信じ、ゆだねて生きる

 何事にも執着しない、修行にさえも執着しないというのが、仏教の教えです。
 私たちの心とは、自分が意識しているよりもはるかに深いもの。これが自分の心と思っているものは、実は小さく閉ざされたごく一部分です。
 でも、心の奥深くでご神仏とつながることができれば、その無限に広く大きな存在によって、固く閉じた自分から解放されるでしょう。

 ご神仏の愛は、外からやって来るものではありません。つながるためのパイプは、おのれの心の奥深くにこそあるのです。
 つねにご神仏の愛を受け取り、愛されているという実感をもつことができれば、安心してご神仏の導きに自分をゆだねて生きていくことができます。