企業組織を変えていく「良知」のあり方と大切さ

 下田さんは、社会保険労務士という仕事の枠にとらわれず、経営コンサルティング会社の代表として、企業の組織開発・人材育成の支援にも力を入れている。そのベースには「陽明学」の教えがあるという。

下田 私は、以前から、日本における陽明学の第一人者である福岡女学院大学名誉教授の難波征男先生に師事しています。難波先生から教えていただいたなかに、「良心」についての話があります。「良心」は「良知」とも言い、言葉だけを見ると、「悪いことに対して、良いこと」という印象を受けます。しかし、難波先生によれば、「良心」の「良」は現在の日本語では「本来的な」という意味に近いそうです。つまり、「良心」「良知」とは、人に教わらなくても「こういうときはこうした方がいい」と考えるような、生まれつき備わった善悪や理非についての心の動きを指します。

 社員一人ひとりのそうした心の動きが素直に発揮されれば、会社も社会全体もうまくいくはずです。誰かに指示されて「こういうときはこうした方がいい」と考えるのではなく、「就業規則」に定められているから、でもありません。「こういうときはこうした方がいい」と自然に考えられる仕組みや空気を作っていくことが、これからの会社経営や人事戦略においては欠かせないのです。

 日本企業における生産性の低さが指摘され、それを解決する方法としてITやDXによる業務の効率化も語られている。こうした社会の動きと「良心」「良知」の関係はどうなのか?

下田 生産性の向上や業務の効率化において大切なのは、「何のためにやるのか」ということではないでしょうか。生産性を上げるのも業務を効率化するのも、結果的に働いている人たちが幸せになるのでなければ意味はないと思います。ところが、昨今の風潮として、生産性の改善や業務の効率化自体が目的になっているように感じます。

 一方で、働く側もスマートな働き方や効率的な時間の使い方を追求し、「仕事は仕事、プライベートはプライベート」と考える人が増えています。私自身は、個人的には、仕事とプライベートを無理に分ける必要はないと思うタイプです。私たちは人生におけるかなりの時間を仕事にあてていますし、仕事でしか感じられない充実感があります。また、仕事を通しての出会いや人間関係が人生の大切な宝物になることもあります。特に、人は誰しも、「他者から認められている・評価されている」という感覚を求めていて、それを最も得られるのは仕事ではないでしょうか。そうした感覚を私は「存在感」と呼んでいます。

 会社が、社員の“心”を動かし、“心”を温めるようになって、社員の存在感を高めるとともに、不安感をできるだけ下げていくこと――その結果、働く側も雇用する側も幸せになれるはずです。

「良心」「良知」の観点から、いま、下田さんが企業の経営層や人事担当者に伝えたいことは……。

下田 私は、経営者や人事担当の方々とお話をする機会が多いので、現場ではさまざまな難しさがあることは承知しているつもりです。ただ、そうした難しさをひとまず脇に置いて大原則の話をすれば、起点は、経営や人事を行う皆さん一人ひとりの心の中にあります。皆さん自身が「こうした方がいいよね」「これはやらない方がいいな」という心の声に耳を傾けてください。また、「良心」「良知」の根底にあるのは人と人とのふれあいやコミュニケーションです。そういう機会をたくさん作り出してみてください。

 そのうえで気をつけたいのは、「ふれあいやコミュニケーションが大切」といっても、形だけになってしまうことです。事例をふたつご紹介します。

 先日、ある中小企業の社長・人事責任者・人事担当者と私とでミーティングをしたとき、メンタルの問題で休職している社員についての話が出ました。そこで、当人と週1回面談している人事担当者が、「一時は良くなったようですが、最近は食欲がなくなって家からまた出られなくなっているようです」という報告をしました。それに対して、社長は、「『食欲がない』と言うけど、本当に何も食べられないのか、それとも、スナック菓子くらいは食べているのか、どこまで確認した?」と問いかけたのです。場合によっては、会社で弁当を手配してあげる方法もあるのではないか?という指摘でした。社員が、それぞれの「良心」「良知」を発揮するために、人事担当者は、より深いところまで踏み込んでいく必要があるのでしょう。

 もうひとつの事例は、ベトナム人の技能実習生を受け入れている中小企業の話です。初めて受け入れた実習生2人がベトナムに帰国するとき、社長が食事会を開きました。当然、感謝されるものと思っていたら「あなた(社長)の会社は絶対潰れる」と言われたそうです。「僕ら(技能実習生)は、いろいろなことをきちんと教えてくれたらできるのに、単純な仕事だけをやらせて、あなたは僕たちと関わろうとしなかった。そういう心の交流を持たない会社は潰れる」と言われたのです。社長はとてもショックでしたが、技能実習生を「安い労働力」として見ていた点はたしかで、「これではいけない。これからは、他のどの会社よりも実習生をちゃんと育てよう」と決意しました。そして、受け入れるときに、ベトナム在住の親元に面会に行くことにしたのです。ベトナムの技能実習生の多くは親戚などから借金して日本に来ます。親元への面会には、一度、私も同行させてもらいました。ホーチミンから車で2時間走り、道がなくなったところからさらに歩いたところに実習生の実家がありました。そこに30人ほどの親戚が集まり、私たちを歓待してくれました。一人ひとりの技能実習生が親戚全員の期待を背負って日本にやってくることが分かり、「この子を一人前にして親元に返してあげよう」という「良知」が社長に芽生えたのです。

 経営層や人事担当の皆さんには、「良心」「良知」が発揮される仕組みや空気が、会社の中にどのようにすれば生まれるかを意識していただきたいです。そして、そのためのツールが「就業規則」だということを忘れないでください。