個々人が夢中になって取り組める創造的な活動を
幼児期にピアノを習い、一生懸命練習したけれど、成人後はほとんど鍵盤に触ることがないという人は山ほどいる。安価な電子ピアノも普及し、ヘッドフォンを使えば周囲への影響も少なく、手軽に夢中になれるのに、もったいないと思う。そうした人たちに、「なぜ、ピアノを弾かなくなったのか?」と尋ねると、たいてい、「下手だから」という答えが返ってくる。
「思うように演奏できなくてもどかしい」という気持ちは当然だ。しかし、思うようにならないところにこそ、夢中になれるおもしろさがあるのではないか。思うようにならない難しさがあるからこそ、答えのない奥深さがあるのだし、個性を発揮する余地もある。私たちが音楽やスポーツに夢中になれるのは、「上手か下手か」という価値基準に縛られていない側面もあるからだ。夢中になることに価値があると感じ、夢中になることを通して自己表現が生まれ、それが他者に伝わっていく。
私やOKANOさんが夢中になっている「ジャズ」というジャンルの音楽は、演奏する人の個性が尊重される自由度もある。例えば、同じアルトサックスのプレイヤーでも、チャーリー・パーカーとケニー・Gでは、違う種類の楽器のような音を出す。どんな音色を創りたいかという段階から自由があり、それも自己表現の一部となる。音楽の価値にはさまざまな側面があり、それぞれの演奏にはそれぞれの魅力があることがわかる。しかし、「上手か下手か」という一元的な価値に縛られていると、それぞれの魅力を見落としてしまう。
OKANOさんは、「上手か下手か」の価値基準にとらわれていない。堂々とトランペットの楽しさを表現し、「僕の音を聴いてよ」と嬉々として奏でる姿に、聴取者は清々しい魅力を感じる。音楽とは本来そういうものではないかとさえ、私は思う。
自由時間を創造的なものにするためには、心が解放されている必要がある。「上手か下手か」という価値基準にこだわると、「誰が上手で誰が下手で……」といった比較から優越感や劣等感が生まれ、自由時間が窮屈になる。ジャズのライブでは、奏者の人柄がにじみ出るたたずまいが、「上手か下手か」という価値基準を超えて重要だったりする。また、楽しそうに演奏できることは、奏者と聴衆との距離を縮める決定的な価値だ。私たちのライブに来てくれた人たちの感想で、最も私たちの力になるのは、「楽しかった」という言葉なのである。この言葉には、人と比較するという要素が一切含まれない。
さて、音楽の話は大好きなので、言葉が多くなってしまったが、企業で働いている方たちへのメッセージとして、2点をまとめておきたい。
人生100年時代といわれ、働き方改革やコロナ禍によって自由時間が増加している今日、「自由時間をいかに充実させるか」という視点が生まれている。その結果、個々人が夢中になって取り組める創造的な活動の重要性が高まっていく。「個々人が夢中になって取り組める創造的な活動」が社会的なつながりを広げ、仕事の活力をも生み出し得るのである。創造的な活動で出合った価値が、職場にも新しい価値を持ち込むこともあり得るだろう。社会に新しい価値を提案する使命を持つ企業は、イノベーションの種を撒くつもりで、社員の自由時間の充実に意識を向け、創造的な活動を奨励することを考えてもよいのではないか――これが1点目だ。
2点目は、企業の経営層や人事・総務部門のみなさんには、自由時間に個々人が創造的な活動を楽しむことのできる環境づくりに意識を向けていただきたい。環境の一環として、企業と学校教育との連携や生涯学習、文化芸術活動、スポーツ活動の振興への企業参画が考えられる。学校教育には、生涯にわたって夢中になって取り組むことのできる種もある。なかでも部活動の影響力は大きいのだが、いま、その部活動が教員の働き方改革などによって岐路に立たされている。学校教育が抱えるさまざまな困難は、子どもの自由な活動にも大きな影響を与える。未来の企業を担う人づくりの観点からも、学校教育の課題は企業にとって他人事ではあるまい。また、生涯学習の振興には、人生のどの時点からでも、どこに居を構えていても、創造的な活動に取り組むことができるインフラを整備するという意味がある。生涯学習の振興の多くは行政が担ってきたのだが、財政に余裕がなくなることで真っ先に削られることの多い領域でもある。誰もが創造的な活動に取り組むことのできるインフラの整備には、民間の活力が不可欠なのである。学校教育との連携や生涯学習、文化芸術活動、スポーツ活動の振興は、企業も知恵を絞って貢献してもらいたい領域である。
まずは、社員当人が自らの自由時間の創造性を意識してもらえたらと思う。
挿画/ソノダナオミ