食べていたものも美味しく感じず、その店を出て自宅に帰った後も、何も手につかない状態になってしまいました。この間、店員の方は辛さを感じてないだろうか、もし私が店員だったら、どうなってしまっただろうか、などという考えがずっと私の中を引っ掻き回しました。

 もちろんクレームをする側にも理由があることは承知していますが、そのような場面にであってしまうたびに、自分の心の自由が奪われてしまうような感覚になることに辛さを感じてしまうのです。 このような、自分と無関係な他人の怒りにも反応してしまうことを防ぐ方法はあるのでしょうか。

A そういう人を「やさしい」という。わたしたちは何とも無関係なんてことはないし、驚くべきことに、ありとあらゆるものがわたしたちに関係しているし関係する。

 今遠くで工事をする音がしているのですが、わたしはこれを書きながら何度となく手が止まる。音が止まるのと同時に止まるのです。でもすぐまたはじまるから手も動き出す。

 わたしの何がどう反応してそうなっているのかわかりませんが、うまく書けたとしたらそれはあの工事がそうさせた。出来なかったら工事のせいだ。何の工事かも工事をしている人もさせている人もこれには関係がない。天気のように「工事」が関係している。防ぐ方法はないと思います。

 自分にとって良いか悪いかをその都度考えて、良ければよかったと喜び、悪ければその怒鳴り声のようにしばらく影響を受けるしかない。そのうち飽きる。

 うちの猫はスズメが鳴くのにいちいち耳を反応させていましたが今はもうピクリとも動かさない。動いたときはいつもとは違うときでそんなときはほとんどない。いずれ耳も耳の機能を低下させて、なんならまったく活動を止めて、聞きたくても聞こえなくなる。見えなくなる。感じられなくなるのかどうかはわたしはわかりませんが。

 それまでは「よい耳と反応のよい脳だ。わたしだ」と堪能してください。敏感な端末は地球の宝です。やさしい人間は知らないうちに(知らないうちにですから知ってしまうと話は変わる)誰かを何かをやさしくさせている。