仏教写真はイメージです Photo:PIXTA

在家者が葬式に出家者(お坊さん)を呼んで布施を与えるのはなぜか。仏教のあるべき姿とは。本稿は、大竹 晋『悟りと葬式 弔いはなぜ仏教になったか』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

なぜ仏教は在家者の葬式のための宗教になったのか
在家者が握る「葬式仏教」盛衰のカギ

 仏教においては、生物は煩悩にもとづいて善業・悪業を積み続け、それによって、輪廻において転生し続けていると考えられている。

 煩悩にもとづいて善業を積んだ者は善趣(善い趣き先)へ転生し、煩悩にもとづいて悪業を積んだ者は悪趣(悪い趣き先)へ転生する。善趣とは、人、天である。悪趣とは、地獄、畜生、餓鬼である。

 輪廻においては、善趣へ転生しても、悪趣へ転生しても、生物は苦を免れない。しかし、生物は、もし煩悩を断ちきったなら、煩悩にもとづく善業・悪業を積まなくなり、輪廻から脱して涅槃(鎮火状態)を証得する。涅槃を証得して死去する者はもはや絶対に転生せず、とこしえに苦から離れる。

 それゆえに、仏教においては、涅槃を証得すること、いわゆる悟りが最も高く評価されている。ただし、涅槃を証得することはなかなか難しい。

 したがって、概して言えば、出家者は、煩悩を断ちきり、輪廻から脱して涅槃を証得することを目的としているし、在家者は、煩悩を断ちきらないまま、善業である福徳を積むことによって、輪廻において善趣へ転生することを目的としている。

 煩悩を部分的あるいは全体的に断ちきった者は聖者と呼ばれる。

 在家者は、聖者である出家者に布施を与えた場合、その福徳によって大きな果/報酬を得、みずからあるいは亡者がそれを受けて善趣へ転生すると考えられている。在家者が出家者を葬式に呼んで布施を与えることは、本来、聖者崇拝を背景として始まったのである。

 出家者の悟りのための宗教として機能していた仏教は、このようにして、在家者の葬式のための宗教としても機能するようになった。

 こんにちの日本においては、在家者の葬式のための宗教、いわゆる葬式仏教の衰退が指摘されるようになって久しい。

 じつは、これは、妻帯世襲によって代表される出家者の世俗化にともなって、葬式仏教の背景にある、在家者の聖者崇拝が衰退したからである。葬式仏教は在家者によって起こされもするし、なくされもするのである。

「葬式仏教」は不要か必要か
出家者を呼ぶ葬式と呼ばない葬式

 そもそも、葬式仏教は在家者にとって絶対必要なのではない。

 前述のように、在家者は、聖者である出家者に布施を与えた場合、その福徳によって大きな果/報酬を得、みずからあるいは亡者がそれを受けて善趣へ転生すると考えられている。出家者が聖者である場合、出家者を葬式に呼んで布施を与えることを要するが、出家者が聖者でない場合、そのことを要しない。

 また、在家者は、たとえ出家者に布施を与えなくても、ほかのことによって福徳を積んでいる場合、その福徳によって大きな果/報酬を得、それを受けて善趣へ転生すると考えられている。その場合、出家者を葬式に呼んで布施を与えることを要しない。