明治40年、一民は結婚したが、そののちも、妻、静江(1882~1964)を伴って毎朝禾山に参禅した。みずからの眼に映った禾山の姿を静江は次のように回想している。

 私は全体はにかみやで毎朝の参禅でも一人で老師の御部屋へはいるのは間が悪いので襖の傍にそつと坐つて居る。

 静かな御部屋に書見して居られる老師は、静江か?と仰しやる。御返事すると自ら御立ちになつて襖を御開けになる。そして、御前はあまり温和過ぎていけない、女の従順は美徳であるけれど、何事でも過ぎてはいけない、今少し快活にせよと仰しやる。

 老師は八十に近い御年で御召物は上も下も一様に白木綿を着て居られる。大きい御身体に大きい御顔、其の御顔は一面にやけどで誠に見悪い、見悪いと申し上げては恐れ多い事ではあるけれど、御目も鼻も形をして居らない、御耳などはまるで無いのである。

 けれど二分、三分間老師と一所に居る人は誰れでも離れ難い親しみを感じるのである。老師は仏の到来である。徳の化身であられる。老師と膝を交へて居ると謂ひ知れない涙が出る、有難い尊い涙が出る。(田子静江『妻となりて』白水社、1917年、230~231頁)

高名な彫刻家の胸に刻まれた「喝!」
聖者である出家者は再来するか

 これに先立って、明治31年、禾山は東京において藤宮象洲という居士(在家者)が世話役となって作った道友会という禅会に請ぜられ、翌年、急逝した象洲の葬式に招かれて引導した。

 その時の禾山の姿を、当時、道友会に参加していた彫刻家、平櫛田中(1872~1979)は次のように回想している(文中の「見解」とは、公案に対する見解)。

 明治三十二年、さあ何月だったか、象洲居士がポッカリ死んでしまったので、道友会も三年続いて、遂に自然解散となって流れてしまった。その葬儀の時、導師となった禾山老師の引導というものは、有難くって涙のこぼれる思いがした。

 私は後にも先にもあんな引導を聞いたことがない。「象洲、象洲」と生ける人にものを言うごとく呼びかけ、いちいち象洲の見解を説きつけていくのだ。その一句一語が聴く者の五臓六腑に響きわたった。そして老師の口を衝いて出た一転語を終って放たれた。

「喝!」