「硫黄島の多くの部隊は、地熱と戦いながら連日連夜、壕を掘り続けていました。水のない中で、本当につらかったと思います。ちなみに硫黄島で風呂に入ったことは一度もありません。トイレは、掘っ立て小屋みたいのがありましたが、どのように衛生を保っていたかはよく覚えていません」

 激しい空襲や艦砲射撃にさらされ続け、仲間は一人、また一人と散っていった。

「戦闘機で飛び立ったまま未帰還となった操縦士がいました。夕方になっても帰還せず、友軍機が近海を捜索しましたが、見つかりませんでした。その夜は、弾薬250発が入る弾薬箱を部隊のテントの中に3つ置いて毛布を掛けて、見せかけの祭壇を作りました。帰らなかった操縦士の軍刀を置いて弔いました。隊長がみんなの前で、懐かしい思い出を語ったりしました」

 戦後ベストセラーとなった戦没学生の遺稿集『きけ わだつみのこえ』に短歌が収載された親友も、命を奪われた。

「部隊の中で親友となった学徒兵に、東大文学部の蜂谷博史がいました。蜂谷は時間があるときは、いつも壕の中で詩や歌をノートに書いたりしていました。その彼も12月に、戦闘機の整備中に背中から機銃掃射を浴び、戦死しました。息を引き取ると、衛生兵が手の指1本を切り落とし、ガーゼに包んでバッグに入れました。随分と手慣れた手つきでした。切った指は、遺骨として遺族の元へ返すため、その後焼いたと思います」

 西さんは蜂谷さんを埋葬した時の状況を克明に覚えていた。

「『医務班壕』とか『病院』と呼ばれる壕があって、その前に建物がありました。長方形の小屋があって、中に病人が15人ほど入っていましたよ。その先に50平方メートルほどの空き地があって、そこが共同墓地でしたね。深さ1メートルぐらいの長方形の穴を掘り、その中にむしろを1枚敷きました。遺体は毛布でぐるぐる巻きにして、その上から土をかぶせました。こうした共同墓地は島内に複数あったと思います。この墓地にはこの時点で15~16ぐらいの墓石がありました。墓石といっても天然の石を置いただけでしたが」

遺骨収集で仲間に会いたい
訴え続ける西さんの思い

 やがて戦闘機を全機失った西さんらの部隊は、本土に戻ることになった。