「部隊の仲間とは終戦後、それっきりです。一人だけ同郷の学徒兵とは会って『いつかまた硫黄島に行こう』なんて話していましたが、彼は長く生きられませんでした。硫黄島で爆撃を受けて埋もれ、肺の中に土がたまり、それが病となって終戦の10年後ぐらいに他界しました」

 戦後、硫黄島は米軍や自衛隊の拠点となり、一般民間人の自由な渡島は認められない。僅かに年数回、認められている国など主催の慰霊行事でも、参列者は自由な単独行動は許可されない。用意されたバスに分乗し、事前に定められた戦跡を巡るだけだ。戦後、慰霊行事に参加した西さんも、現地で残念な思いをすることになった。

「私が行きたかったのは、友達(蜂谷さん)を埋葬した元山飛行場の先の方でした。そこと栗林壕(兵団司令部壕)と(自分が駐屯した)元山飛行場。その3ヵ所だけは絶対に見たかったんだけど、車の運転手が全然、止まってくれないんですよ。それで私も墓に行けなかったし、栗林壕の前を通りながら、行けなかった。残念無念でした」

 西さんが急逝したとの連絡は2022年7月に伝えられた。最後となってしまった9回目(2022年2月18日)のインタビューで、西さんは噛みしめるように話した。

「(遺骨収集は)やめちゃいけない。当然じゃないですか。慰霊祭もいつまでも続けてもらいたい。衛生兵が蜂谷の指を切るとき、しょっちゅうやっているような手慣れたもんでしたね。それぐらい多くの兵士が米軍上陸前の砲爆撃で死んでいた。空襲警報が鳴っている間、兵士たちは壕の中で、自分の国(故郷)の話なんかしていましたね。だからやめちゃだめですね。(遺骨については)全員帰したいですよね。遺族もかわいそうだ。私の姉も出征するときに、行くなって言ったんですよ。送る者は、悲しんでいた。それが常でした」

書影『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)
酒井聡平 著

 西さんの訃報を受けて悲しみに暮れる中、僕は思った。

 戦争で父や夫、友人を失った人が誰一人いなくなる時代はもう目前に迫っている。かけがえのない人の遺骨の帰りを生涯、願い続けた人たちにとって、叶わぬまま世を去る悲しみは計りしれない。

 従来のペースで延々と続けていくのか、従来以上にボランティアを募ってペースを上げるのか、それとも、遺骨収集の予算を縮小して慰霊行事の予算を拡充するのか。戦争当事者世代なき時代の戦没者遺骨への対応は、せめて戦争当事者世代が望む形であってほしいと僕は思う。そのためには、遺族らがまだ健在のうちに政府は議論を始めなくてはならないのではないか。