「硫黄島は陸軍と海軍が進出していましたが、島南部の千鳥飛行場で出迎えてくれた兵隊たちは皆、はつらつとしていました。敗北感がみじんもないんです。私は彼らと接して、生き返ったような気持ちになりました。陸軍の私たちが拠点としたテントに、在島の海軍航空隊の整備員たちがやってきて、握手をしてね。もうその途端から戦友になりましたよ」

 大戦末期の戦場である硫黄島は、当時としては「老兵」と言われる30代や40代の再応召兵が多かった。妻や子供と暮らす普通のお父さんたちが全国から集められたのだ。

「私たち整備員が硫黄島に着いた次の日のことです。操縦士たちが陸軍戦闘機の『隼』を操縦して島に到着し、合流しました。そのとき、在島の兵士たちが喜んでこう言うんです。『あんたたちが来てくれたから、もうこの島は大丈夫だ』って。私はそれを聞いてね、困ったなあと。持っていった隼は年を取ったおんぼろの旧式でしたから。期待が外れるんかなあって」

 そして西さんの不安は的中することになる。

「空襲のたびにね、隼は飛び立っていくんですよ。1機に対して向こうは数機で攻撃してくる。太刀打ちできないですよ。まるでツバメとタカの戦いですよ。1機も落とせなかったんです」

硫黄島での日々は
喉の渇きとの戦い

 当時の守備隊兵士たちの心境について、西さんはこう振り返った。

「あれだけ空襲してくるのだから、いずれ米軍が上陸するのは明らかでした。でも、島の兵士たちの雰囲気はあまりにも和やかなんですよ。諦めというんじゃなくて、その時、その目の前の任務に命令通り、精一杯取り組むだけです。悲観的な会話は全然なかった。みんなこの島を守る戦いで骨を埋める覚悟ができていたと思います」

 西さんたちは米軍の攻撃以外でも苦しめられた。喉の渇きとも戦い続けたのだ。

「硫黄島には川がありません。だから飲み水には苦労しました。私たちの部隊の補給担当者は毎朝、みんなから水筒を集め、それに給水所で水を入れて、各人に返していました。1日の飲み水はこれがすべてです。雨水頼りの島ですが、私が島にいた約40日の間、土砂降りはたったの一度でした。2万人以上の兵がいた島です。よくそれだけの分を貯められたなあと思います」

 飲み水だけでなく、生活用水の確保も容易ではなかった。