「米軍機の攻撃で、1944年末には硫黄島の陸軍戦闘機は壊滅状態となり、私たちの部隊は千葉県の原隊に戻ることになりました。1945年1月8日のことです。この日、司令部壕の近くで飛行場に向かうトラックを待っていると、栗林中将(※編集部注/硫黄島防衛の最高指揮官・栗林忠道。戦死後、陸軍大将に昇進)が部下5~6人を連れて通りかかり、ふと足を止められました。私たちの隊長は、前に進み出て本土への帰還を報告しました。栗林中将は、私たちのうちの一人が首から骨箱をぶら下げているのに気づき『この兵はどうして亡くなったのですか』と聞かれました」

 そこでの栗林中将の行動は意外だった。

「仲間が、戦死した状況をかしこまって説明すると、栗林中将はまるでわが子をねぎらうように、悲しい表情をして骨箱をしばし抱かれました。偉いなあと思いましたね。厳しい人だったらしいのですが、私たちが会ったときは『おじさん』という感じですね。私たちの部隊は在島中、敵機に対してほとんど打撃を与えられなかったわけです。栗林中将はそのことを知っていながら『ここの兵隊たちは、あなたたち(戦闘機部隊)の努力にみんな感謝しています』とおっしゃった。それから、こうも話してくれました。『今からあなたたちが帰る日本の本土も、これからはここと同じ戦場なんです。だから一緒に頑張りましょう』と。とても優しい話し方でした。印象としては、落ち着いていましたねえ。魅力がありましたなあ」

 硫黄島最後となったこの日、西さんは生涯忘れられない「顔」を見た。それは島の兵士たちが別れの際に見せた表情だ。

「本部壕前でトラックに乗り込んだときのことです。トラックの周りに大勢の兵たちが見送りに集まってくれました。みんな島で顔なじみになった人たちです。短い期間ではありましたが、これほど親密になる出会いは、それまで経験したことがありませんでした。別れの言葉を交わしたとき、彼らは皆、笑顔だったんです。彼らの中には『自分も本土に帰りたい』と言う人は誰一人いませんでした。神々しいまでに美しい笑顔でした。そして、私たちが乗るトラックが見えなくなるまで、彼らはずっと手を振り続けていました」

 そして8月15日、終戦の日を迎えた。戦後は中央大学に復学し、卒業後、高校の英語教諭の道を歩んだ。