【初対談】田原総一朗と泉麻人が「変革の時代」昭和50年代を回想!ロッキード事件、ロス疑惑、ゴールデン街、ファミコン、西武文化圏、グリコ・森永事件……令和の今との大きな違いは?Photo by Teppei Hori

ジャーナリスト・田原総一朗氏とコラムニスト・泉麻人氏が初対談。ロッキード事件、アップルコンピュータ誕生、「ドリフ大爆笑」「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」放送開始、「ウォークマン」発売、ソ連のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争、ジョン・レノン銃殺、エイズの発見、東京ディズニーランドの開園、「ファミリーコンピュータ」発売、ロス疑惑、「オウム神仙の会」(後のオウム真理教)設立、グリコ・森永事件……。トヨタ自動車が製造業で初の5兆円企業となり、その後のバブル経済へと日本全体が向かっていく、時代の変革期「昭和50年代」を、希代のジャーナリストとコラムニストが回想する。(構成・文/ダイヤモンド社編集委員 長谷川幸光、撮影/堀哲平)

報道のあり方を変えた
あさま山荘事件とロッキード事件

田原さん田原総一朗(たはら・そういちろう)
1934年、滋賀県生まれ。ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、岩波映画製作所や東京12チャンネル(現・テレビ東京)を経て、1977年からフリー。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」等でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ「ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)」受賞。「朝まで生テレビ!」「激論!クロスファイア」の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。近著に『さらば総理』(朝日新聞出版)、『人生は天国か、それとも地獄か』(佐藤優氏との共著、白秋社)など。2023年1月、Youtube「田原総一朗チャンネル」を開設。

田原総一朗(以下、田原) 『昭和50年代東京日記』という本を出しましたね。なぜ昭和50年代にしたのですか?

泉麻人(以下、泉) 『昭和40年代ファン手帳』など、10年区切りの戦後の風俗論のような本をいくつか出しているのですが、「昭和50年代」というくくりではまだやっていなかったんですね。

 この時代は、西暦で「1970年代」(昭和45年~昭和54年)や「1980年代」(昭和55年~平成1年)とくくられることが多く、昭和50年からの10年という時代をまとめる機会はなかったんです。

 僕としては、大学生から社会人になって、後半はサブカルライターとして活動を始めた頃です。身近な環境の変化のせいもあると思いますが、昭和50年の春に、音楽、映画、テレビ、ファッションなどの空気感が、ガラリと変わった印象があったんですね。その10年間の話を、自分史と絡めながら書いてみようと思いました。

田原 大学では広告を研究するサークルに入ったんですよね。当時、政治とか芸術ではなく、広告を選んだのはなぜなのですか?

 生まれた時から家にテレビがある世代でしたので、テレビに大きな影響を受けていたんですね。でも、小学生ぐらいの頃から、番組よりもコマーシャルに興味があったんです。

田原おもしろいですね。なぜそんなにCMに関心があったのですか?

泉麻人さん泉麻人(いずみ・あさと)
1956年東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業。東京ニュース通信社に入社、「週刊テレビガイド」の編集のかたわら「スタジオ・ボイス」「ポパイ」などに原稿を書き始める。1984年に退社後、フリーのコラムニストとなる。著書に『昭和50年代東京日記: city boysの時代』『東京23区外さんぽ』(ともに平凡社)、『大東京23区散歩』(講談社)、『泉 麻人自選 黄金の1980年代コラム』『1964前の東京オリンピックのころを回想してみた。』(ともに三賢社)、『昭和40年代ファン手帳』(中央公論新社)など多数

  その時代が反映されているのが好きだったんだと思うんです。小学校の時にいちいちそのようなこと意識していませんでしたが(笑)。

 CM内のことばが、小学校の中で流行になることも多かったので、そういう意味で、番組そのものよりも身近なメディアというか。植木等(うえき・ひとし)さんの「なんである、アイデアル」(※)なんかもとてもはやりましたね。
※かつて存在した洋傘メーカー・アイデアルのCMのキャッチコピー

田原 たしかにCMというのは、番組制作以上にお金をかけてつくられているものもありますし、短い時間の中で絶対に商品の印象を残してもらうため、ことばをとことん選び抜いていますからね。

 同じサークルに佐藤栄作(元首相)の孫娘がいて、昭和50年に佐藤栄作が亡くなった後、日本武道館で行われた国民葬のほかに、築地本願寺で密葬も行われ、私もその密葬に参列しました。その女性の一家はマージャンが好きで、「マージャンパイを貸してほしい」と言われ、佐藤家まで持って行ったことがあります。残念なことにその女性は大学卒業後に亡くなってしまいました。ですので、私のマージャンパイも佐藤家に置きっぱなしのままです。

 その後、昭和51年にはロッキード事件が起こりました。証人喚問での証人たちの「記憶にございません」は流行語になり、(元衆議院議員の故・)楢崎弥之助(ならざき・やのすけ)さんや議長などのやり取りなどを皆、よくまねをしていました。

田原 楢崎さんは一度、お会いしたことがありました。

 あの証人喚問はすごかったですね。

田原 ロッキード事件はアメリカの策略で、田中角栄(元首相)は冤罪(えんざい)だと、『中央公論』に書いたんですよ。

 昭和47年のあさま山荘事件の人質救出作戦と、昭和51年のこのロッキード事件の証人喚問は、当時としては珍しくテレビ中継が行われ、世間が釘付けになりました。この頃から報道のテレビ中継が増えていきましたね。

 昭和54年に、僕は大学を卒業して、『週刊TVガイド』を発行している東京ニュース通信社で働き始めました。田原総一朗さんの原稿を担当していたこともあったのですが、ご記憶にありますか?

田原 泉さんのこの本を読んで、そうだったんだと。僕について書かれた箇所を読むと、僕は極めてそっけなくて、会話もあまりなくて、とてもつまらない人間のよう(笑)。