ジャーナリスト・田原総一朗氏と今回、対談を行うのは、東京大学大学院教授の鈴木寛氏だ。鈴木氏はこれまで、通商産業省、大学教員、国会議員、文部科学副大臣などを歴任。その根底には一貫して「教育」への強い思いがある。鈴木氏は著書の中で「一騎打ちが大好きな日本人の好みに合わせて、田原氏は、どんどん一騎打ちの枠組みに追い込んでいく」「イエスかノーかその場で決断せよと迫られる」と、田原氏のテレビ向けの手法の功罪を指摘する一方で、作家としての田原氏のファンであり「丹念な取材に基づき、非常に精緻に丁寧に理性的にまとめてある」「ジャーナリストの鏡」と評している。また、地上波テレビとは別の場所では「熟議をしっかりファシリテーションしている」と述べている。そのような2人の共通点は「対話」と「一次情報」だ。田原氏は主にジャーナリズムにおいて、鈴木氏は主に教育において、「対話」と「一次情報」に重きを置いてきた。なぜ日本は教育へ投資をしてこなかったのか? 吉田松陰の松下村塾になぜ今も注目が集まるのか? 対談の前編をお届けする。(構成・文/ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光)
マイクロソフトの売り上げに貢献した日本は
なぜこれほどまでに遅れをとったのか?
田原総一朗(以下、田原) 鈴木さんは、大学は東京大学ですが、どのように学生時代を過ごしていたのですか?
鈴木寛(以下、鈴木) その頃、駒場小劇場(※)で、ミュージカル劇団の音楽監督をやっていたんですよ。
※東京大学の駒場キャンパスにかつて存在した学生自治寮の「東京大学 駒場寮」にあった「寮食堂北ホール」を、劇作家の野田秀樹らが改装し、演劇スペースとした
1934年、滋賀県生まれ。ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、岩波映画製作所や東京12チャンネル(現・テレビ東京)を経て、1977年からフリー。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」等でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ「ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)」受賞。「朝まで生テレビ!」「激論!クロスファイア」の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。近著に『さらば総理』(朝日新聞出版)、『人生は天国か、それとも地獄か』(佐藤優氏との共著、白秋社)など。2023年1月、YouTube「田原総一朗チャンネル」を開設。
鈴木 合唱や合奏が好きなんです。皆、声が違うし、使う楽器も違う。それらのハーモニーがバシッとはまると、ゾクッとくるんですよ。オーケストレーション、つまり、交響楽ですね。これは、独唱や独奏とはまったく異なる快感を得ることができる。その感覚に取りつかれるというのが、音楽の楽しさですね。
田原 オーケストラというのは西洋から来ていますね。日本古来の音楽とはまたおもしろさが違いますか。
鈴木 そうですね。日本は同じ旋律を一緒に歌うというのが特徴ですよね。西洋は違う旋律を一緒に歌います。
田原 なるほど。西洋はいろいろなメロディを歌う。
鈴木 はい。そこでハーモニーができるんですよね。
田原 日本は同じメロディを歌うので、ハーモニーは必要がないんだ。
鈴木 同じ旋律ですからね。西洋ではおのずと皆、違う節を歌い、ハモらせる。そこが西洋の音楽と日本の音楽との決定的な違いですよね。
東京大学教授、慶應義塾大学特任教授、社会創発塾塾長。 1964年生まれ。東京大学法学部卒業後、通商産業省に入省。1995年夏から、通産省勤務の傍ら、大学生などを集めた私塾「すずかんゼミ」を主宰。省内きってのIT政策通であったが官僚の限界を痛感し、霞が関から大学教員に転身する。慶應義塾大学SFC助教授を経て、2001年、参議院議員初当選。文部科学副大臣を2期務める。2012年、社会創発塾を創立。2014年2月より、東京大学公共政策大学院教授、慶應義塾大学政策メディア研究科兼総合政策学部教授に同時就任(慶應義塾大学教授は2023年春まで、その後、特任教授)。2014年10月より文部科学省参与、2015年2月より2018年10月まで、文部科学大臣補佐官を4期務める。日本でいち早く、アクティブ・ラーニング、探究、STEAMの導入を推進。2020年度から始まった学習指導要領の改訂、40年ぶりの大学入学制度改革に尽力。OECD教育2030ビューローメンバー、Teach for ALLグローバルボードメンバー、スポーツ政策推進機理事、日本サッカー協会参与、日本教育再興連盟代表理事、ストリート・ラグビー・アライアンス代表理事、日本レース・ラフティング協会会長、INOCHI未来フォーラム理事、ラグビー・スクール・ジャパン評議会議長、FC今治高校評議会議長、ウエルビーイングン学会副代表理事、三菱みらい育成財団理事なども務める。
田原 ハーモニーが楽しいんですね。
鈴木 そうなんですよ。西洋の音楽というのは、違う音、違う旋律を出しているにもかかわらず、個性はつぶさないんです。個性を発揮しながらもハーモニーが生まれる。
日本の音楽は、個性を抑えて旋律をそろえる。少しでも違うと「お前、音がズレてるぞ」と怒られてしまう(笑)。
この「オーケストレーション」というのは、私の中ですごく重要なキーワードであり、大事にしていることなんです。
田原 鈴木さんは何年生まれですか?
鈴木 1964年です。東京オリンピックが開かれた年です。
田原 じゃあ、大学に入った頃は、中曽根(康弘)内閣ですか。
鈴木 そうですね。
田原 まさにジャパン・アズ・ナンバーワンの時代ですね。
鈴木 はい。ジャパン・アズ・ナンバーワンと教えられてきたので、アメリカに対してコンプレックスというのがまったくないんですよ。オイルショックには驚きましたが、日本はアメリカよりも早く立ち直りましたよね。
私たちより上の世代はアメリカにコンプレックスを持っていますし、下の世代もやはりコンプレックスがあるのですが、私たちの世代は、そこまで強くアメリカを意識してこなかった。こうした学生時代の意識というのはとても大事ですよね。その後、1995〜1999年に通産省でITを担当をしていたのですが、この頃、半導体は日本が世界一でした。
田原 一番大事なところを担当していたわけですね。
鈴木 日本のパソコンは当時、世界のシェアの7割を占めていました。まさに重要な分野の現場の責任者だったのです。ビル・ゲイツ氏とも7〜8回は食事をご一緒しています。日本のパソコンにWindowsとIntelをあらかじめインストールして売っていたこともあり、当時、世界のマイクロソフトの利益の4割ぐらいは日本から売り上げていました。
田原 マイクロソフトは成功したのに、なぜ日本のIT産業はかなりの遅れをとったのでしょうか。半導体も今や台湾がリードしています。どこで日本は違ってしまったのでしょうか。