吉田松陰の松下村塾に見る
これからの教育のかたち
田原 鈴木さんは、通商産業省(※)に務めながら、1995年に東京大学で「すずかんゼミ」を始めましたね。これがすごくおもしろい。始めたきっかけは何だったのですか?
※2001年、中央省庁改革に際して「経済産業省」へと改組した
鈴木 私は1986年に通産省に入省し、1993年から2年間、山口県庁の商工労働部に出向していました。真っ先に松下村塾(※)を訪れ、ものすごく感激したんです。それで赴任中の2年間で、松下村塾に20回行きました。
※幕末期に吉田松陰が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)で主宰した私塾。2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産に登録された。現在は外観のみ見学が可能
田原 松下村塾にそれほど惹かれた理由は何だったのでしょうか。
鈴木 松下村塾って、めちゃくちゃ狭いんです。10畳と8畳なんですよね。吉田松陰が教えた期間は3年と短く、そこで92人が学びました。別に天下の英才を選抜して集めたわけではなく、半径1キロくらいに住む子どもたちが集まってきただけです。その彼らが日本を変えてしまったのです。
やっぱり若者の可能性は無限だなと思いました。あんな狭いところから日本を変えてしまうのですから。それまでは通産省の官僚として「世の中を動かすのは経済だ」と思っていましたが、そうではない、「世の中を動かすのは若者だ」と、そこで思ったんです。
田原 160年以上前に生きていた吉田松陰の影響力が今でも強いのは、なぜなのでしょうか。今の教育と具体的にはどこが違うのですか。
鈴木 まずは吉田松陰が「一次情報」を重視したことでしょう。黒船を見るために伊豆の下田へ行って、さらに黒船に乗ろうとしたわけですし。青森の竜飛岬へも、海峡の防衛を調査するために歩いて訪れています。「いろいろなものを実際に自分の目で見た上で自分で考えるべきだ」と、考えたんですね。
そして、「対話」「問答」「熟議」を徹底してやっているんです。一番多感な10代を対象に、一人一人、それこそマンツーマンで、すべて違う教育をしていました。
一方で20世紀の日本の教育というのは、皆、同じ時期に、同じ教科書を使って、同じ内容を勉強しましょうというものです。ジャパン・アズ・ナンバーワンになるために、「マニュアルをきちんと暗記して正確に速く再現する力」と、「小さな間違いを見つけて直す力」を、徹底的に養成したわけです。
田原 大勢に対してすべて同じ教育をする、少数を対象にすべて違う教育をする、そこが大きな違い。
鈴木 一斉教育、画一教育というのは、実は明治時代にアメリカから持ち込まれた教育方法です。でも、そのアメリカは、それがうまくいかなかった。一方で日本は大成功した。そして、ジャパン・アズ・ナンバーワンとなった。
日本の品質管理は急速に向上し、お手本と寸分違わぬものを、しかも故障しないものを、誰もがつくれるようになりました。車もそうですし、先ほどの半導体もそうですね。生産現場ではQCサークル活動(※1)が取り入れられ、品質管理の進歩に功績のあった企業などに送られるデミング賞(※2)もあります。
※1 小集団改善活動。工場などの生産現場で、品質管理(Quality Control)を向上させるために小集団で行う改善活動
※2 アメリカの統計学者であり、品質管理の指導者であるウィリアム・エドワーズ・デミング博士にちなんだ賞。デミング博士は、占領下の日本にGHQ(連合国軍総司令部)の招きで来日。日本企業へ統計的品質管理の重要性を指南し、以後、日本企業の品質管理は飛躍的に向上した
でもこれからは、品質管理というのは、AI(人工知能)やロボットといったデジタル技術が担うようになるでしょう。工業社会が終わり、インターネットやAIなど新しい情報社会の時代が始まっています。今までの教育方法はもう通じなくなってきているのです。
ですので、教育を変えなければならない。私は「卒近代」と呼んでいますが、卒近代を担う人材を育てていかないといけないんです。
田原 卒近代、ですか。
鈴木 はい。「近代を卒業する」という意味で、私の造語です。
田原 それはどういうことですか。