家康の息子なのに「大坂夏の陣」に遅刻!兄の家臣を斬殺!徳川家で嫌われた“残念な殿様”は?松平忠輝像 『元和二年新潟諸役用捨之覚』国立国会図書館所蔵

徳川家康には11人の息子がいた。第2代将軍となる秀忠。尾張・紀伊・水戸藩の「御三家」を創設する義直・頼宣・頼房。さらに福井藩主となる結城秀康ら、そうそうたる顔ぶれだ。だが、家康の息子であるにもかかわらず「大坂夏の陣」に遅参するなど、不行跡(良くない行い)によって改易(領地を取り上げられること)となった男もいた。六男の松平忠輝(まつだいら・ただてる)である。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

家康が「捨てよ」と
吐き捨てた子ども

「世に伝ふるは介殿生れ給ひしとき、徳川殿御覧じけるに色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげなれば、憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」

 元禄年間(1688〜1704年)に儒学者の新井白石が著した武家の家伝集『藩翰譜』(はんかんふ)にある、松平忠輝(介殿/すけどの)出生の逸話だ。色黒で醜い容姿だったことに父の家康(徳川殿)が嫌悪感を示し、「捨てよ」と命じた――。

『藩翰譜』は「後日談」をまとめた書で、しかも伝聞を中心としている。それゆえ信憑(しんぴょう)性に欠け、決してうのみにはできない。詳しくは後述するが、家康は忠輝に甘かったという見方もある。

 だが、「捨てようとした」と書かれているからには「徳川に“いなかった”」と言っているに等しい。何らかの理由で徳川一門が彼を疎んじ、冷遇していた可能性を捨てきれない。

 忠輝は粗暴で、さまざまな不行跡を行ったという。言動を問題視した幕府は忠輝を改易に処し、20代半ばから92歳で没するまで伊勢国(三重県)の寺への幽閉や、他家預かりを繰り返した。家康の子でありながら、生涯流浪の身のようなものだった。

 いったい忠輝とはどんな人物で、何をやらかしたのか。次ページ以降で解説する。