私たちは自分で自分をこういう人間だとだいたいわかっています。これを「第一の自分」と言います。そして、周囲から思われている「第二の自分」がいます。

「私は何を言われても怒らないキャラと誤解されているようで、最近カチンとくることが多いんです」と愚痴をこぼす人がいました。この場合、第一の自分は「たまにはカチンとくることがある人」です。そして、周囲から見られている第二の自分が「何を言われても怒らない人」です。

 通常、あなたが思っているあなたと、他人が思っているあなたの間には、大きなギャップがあります。しかし、社会で生きていれば、正しいのは第一の自分ではなく、悲しいかな、第二の自分のほうです。

 人前で怒ったことがなければ「何を言われても怒らない人」と思われるのは仕方ありません。私たちは、圧倒的に第二の自分として見られているのです。「私はそんな人間ではありません」と世界の中心でいくら叫んでも、その声は届きません。

 そして、第二の自分を認めた上で出てくるのが「第三の自分」という新しいキャラです。何を言われても怒らないと思われているならたまに怒ったり、不貞腐れたりしてみるのもいいでしょう。第一の自分と第二の自分のギャップを埋めて、第三の自分で生きていくと“わかってもらえない”とモヤモヤすることが大幅に減ります。

その“期待”が不機嫌をつれてくる

「苦労する身はなに厭わねど、苦労し甲斐のあるように」は、音が七・七・七・五の都々逸(どどいつ)です。苦労するのはかまわないが、せめてその報いがありますようにと願い、昔の人が作ったものです。

 自分の努力に対する見返りを求めたくなるのは人情でしょう。頑張った結果として給料が上がる、有名になる、褒められるなど、自分が求めるような見返りが返ってくればうれしいもの。しかし、実際にはそんなことはほとんどありません。

 上司が陰になり日なたになって、段取りをしたり根回しをしたり、万が一の時の対応策を考えておくなど苦労をしているのに、部下がそれに気づかず、上層部もその努力を評価してくれなければ、自棄のやんぱちで不機嫌にもなるでしょう。これは、自分の努力に対して自分が正当だと思う見返りを期待していることから起きる現象です。