この「正当だと思う見返り」がクセモノなのです。自分では5を期待していたのに3しか見返りがなければ、上機嫌ではいられません。どこを見ているのだ、何を考えているのだと言いたくなり、不満がつのります。

 そのような時は、期待している見返りそのものを見直せば心はおだやかでいられます。人情を扱う講談や浪曲のセリフの中には、苦労した人に「よく辛抱してやった。あなただからできたんだ。あなたのような仲間を持つことを誇りに思うよ」などのねぎらいの言葉をかける場面が登場します。

 その時、「千僧万僧の読経より、今の一言がありがたい」や「あなたがわかってくれているだけで、幾万の援軍を得たような心持ちがします」と返します。この場合、「あなた一人がわかってくれていれば、それでいい」というレベルまで、見返りの期待度を下げることで満足したのです。

 自分のしたことに対して早急な見返りを求めるのも考えものです。私はご詠歌(在家のための伝統的な讃仏歌)を教えているのですが、生徒が上手に唱えても、すぐには褒めません。一度はまぐれで上手くできることがあります。二度上手く唱えられても偶然かもしれません。三回できれば実力ですから、その時になってやっと褒めます。

 期待するような見返りが得られない時、私は見返りなど求めずに精一杯咲いている花に近づいてじっと見ることにしています。そうすると、自分も精一杯やるだけやれば、それでいいと思えて、にっこりできるのです。