そもそも、吉良邸は、江戸城近くの呉服橋にあったが、本所無縁寺裏に屋敷替えとなった。呉服橋で、吉良邸近くに屋敷があった蜂須賀家が、騒動に巻き込まれてはたまらないと、幕府に吉良邸の屋敷替えを願い出たことが、その一因だったともいわれる。
むろん吉良邸が江戸の中心地から、人もまばらな郊外へ引っ越せば、赤穂浪士にとってはより襲撃しやすくなる。それなのに、吉良側はまったくと言っていいほど警戒していなかったのだ。
一人生き残った赤穂浪士のその後
吉良邸に討ち入りして、主君の仇討ちを果たした大石内蔵助ら赤穂浪士・46名は事件からほどなくして切腹となった。吉良邸に討ち入りしたのは47人とされるから、一人だけ生き延びた人物がいることになる。それは、足軽という身分でただ一人、討ち入りに参加した寺坂吉右衛門だった。
吉右衛門が生き残ったのは、討ち入り後に内蔵助の指示で逃げ延びたという説、討ち入り前に逃亡したという説、あるいは足軽という身分だったため、逃亡を見逃されたなどの説がある。
そのうち、内蔵助が逃がしたという説に関しては、足軽身分で討ち入りに参加させたことが世間に知れるのは差し障りがあると、内蔵助が考えたからだともいわれる。
ともあれ、吉右衛門は逃亡後、幕府の追手がかかることもなく、再就職もしている。ここで、吉右衛門の人生を振り返ると、彼はもともとは足軽頭の吉田忠左衛門の配下で、討ち入り後は、まず忠左衛門の妻・りんの世話で、伊藤十郎太夫治興のもとに引き取られる。治興は、赤穂の隣国の姫路藩主の本多忠国に仕えていた人物である。
その忠国が死ぬと、本多家が越後国村上に転封となったため、吉右衛門も越後に移った。本多家がさらに下総国古河へ転封された後、吉右衛門は伊藤家を離れ、江戸麻布の曹渓寺で寺男として働いていたという。
さらに、享保8年(1723)には、曹渓寺の住職の紹介で、山内主膳豊清に召し抱えられる。この仕官は、吉右衛門が義士の一人として討ち入りに参加していたことを名誉として、山内主膳豊清のほうから求めたものだったという。