生類憐みの令の時代に、犬を大事にしなくてもよかった場所とは?
吉良邸討ち入りのそもそもの発端となったのは、大石らの主君浅野内匠頭が高家吉良上野介義央に切りつけた「江戸城松之廊下事件」。将軍徳川綱吉は浅野に即日切腹を明示、領地を没収した。徳川綱吉と言えば、犬公方と呼ばれ「生類憐みの令」で知られるが、この“不思議”な法令にもさまざまな裏話がある。ここでもひとつ紹介しよう。
5代将軍の徳川綱吉が「生類憐みの令」を発布したのは、貞享4年(1687)のことだった。綱吉は、殺生を禁じる仏教への信心から、動物を殺すことを禁じたといわれる。そのさい、綱吉が戌年生まれだったことから、とりわけ犬を虐待することが厳禁とされた。
そんな時代にも、犬を思い切り殴っても構わない“特区”があった。徳川光圀の水戸藩内である。
「生類憐みの令」が発布されたとき、光圀はすでに60歳、家督を譲り、『大日本史』の編纂にかかっていたが、「天下の悪法」とも呼ばれた生類憐みの令には断固反対だった。そして、「水戸領内においては、鳥獣殺生は自由。人に害をなす犬は打ちすえてよい」と宣言していた。
ある日、水戸から、江戸城の綱吉宛てに小包が届いた。側用人(そばようにん)の柳沢吉保と開封すると、その顔からサッと血の気が引いた。なかには、犬の皮が入っていたからである。添えられた手紙には、「防寒にはこれが最適」と書かれていた。
綱吉は、死の間際に「生類憐みの令だけは残してくれ」と遺言したが、死後、新井白石が6代家宣 (いえのぶ)の補佐役となると、真先にこの法を廃止した。
“悪辣な策謀家”柳沢吉保はなぜ幸福な晩年を生きることができた?
将軍綱吉の側近として、権勢をふるった柳沢吉保。赤穂事件では、幕府側の中心として悪役で描かれることの多い人物ですが、その生涯を追うと意外な姿が浮かび上がってきます。
柳沢吉保といえば、徳川5代将軍・綱吉の側用人として知られる。最初は綱吉の小姓だったが、綱吉の寵愛を受けてとんとん拍子に出世、最後は大老並みの扱いを受け、甲斐15万1200石の大名になる。綱吉の母・桂昌院の信任も厚く、幕政の中心を長く担った。