吉保の出世ぶりがあまりに異例だったので、そこから吉保を悪辣な策謀家や野心家のようにいう声もあるが、実際はそうでもなかった。むしろ、勤勉で実直な人柄であり、それが綱吉に信用される元となった。綱吉が自宅を訪れるさいには、屋敷を新装し、同行者1万人の食事を用意するなど、大変な忠臣ぶりを見せている。

 上司からの覚えがめでたい部下ほど、上司がいなくなったときには、不遇な目にあうものだ。吉保の場合どうだったかというと、彼には転落という言葉は当たらなかった。

 綱吉が宝永6年(1709)に亡くなると、吉保は、それに伴って出家する。吉保は当初、綱吉の小姓らと同様、剃髪して綱吉を送りたいと希望するが、吉保ほどの重臣にそのような前例はないと却下される。

 吉保が出家するのは、葬儀が終わり、家宣の6代将軍宣下の儀が行われたあとのこと。宣下の儀が終わった1カ月後、吉保は側用人を辞職し、家督を嫡男・吉里に譲り、出家する。吉里には、吉保の所領である甲斐15万1200石をそのまま認められ、次男以降の子にも、それぞれ1万石が分与された。

 一時は権力をほしいままにした吉保が、次期将軍の家宣から、さほどひどい扱いを受けなかったのは、家宣を綱吉の嗣子(しし)とするのに尽力したことが大きいようだ。

 綱吉の死後、権力の座にとどまろうとせず、早々に辞職を願いでたことも、好感をもたれた一つだろう。

 出家した吉保は、保山元養という法名を授かり、駒込の別荘・六義園(りくぎえん)で余生を過ごす。六義園は、かつて綱吉から拝領した4万7000坪の地に、7年かけて造られた回遊式の大庭園。吉保はそこで四季折々の景観を楽しみ、ときには和歌を詠み、儒学者たちと儒学談義に興じるといった悠々自適の日々を送る。年頭には、家宣への拝謁が認められ、大奥に伺候(しこう)する特権も与えられた。そんな暮らしを5年送ったあと、吉保は57歳で世を去った。死に際は、眠るように静かだったという。