後世に語り継がれる詩や小説を遺した「文豪」には、世間一般の「ふつう」に馴染めなかった者が少なくない。 しかし「こじらせていた」からこそ、彼・彼女らは文学の才能を開花させることができたと言える。今回は、書籍『こじらせ文学史 ~文豪たちのコンプレックス~』(ABCアーク)から一部を抜粋して、島崎藤村と谷崎潤一郎の知られざる素顔に迫る。恋愛に関する作品を手掛けてきた二人は、実生活でも奔放すぎる恋愛遍歴を重ねていて…。
姪を孕ませて海外逃亡
藤村の禁断の恋
詩人、作家。本名・島崎春樹。長野県の旧中山道沿い、馬籠宿の庄屋の家に生まれる。明治学院第1期卒業生で、校歌の作詞をしている。在学中にキリスト教に入信、ヨーロッパ文学の影響を受けたロマン派的詩歌を創作した。詩集に『若菜集』など。小説に『春』『新生』『夜明け前』など。『東方の門』の執筆中に急逝した。
藤村は創作活動のかたわら、東京の明治女学校の英文学教師として生計を立てていた。しかし、のちに新宿中村屋を創設する相馬黒光(そうま・こっこう)によると、<残念ながらその講義(※藤村の授業)はちっとも面白くありませんでした>。これは彼女の意見というより、生徒たちの総意だったようで、藤村が大失恋したから授業に身が入っていないのだろうと女生徒たちは噂し、<ああもう先生は燃え殻なのだもの>と失望したという(※相馬黒光『黙移』)。
藤村は、明治女学校で許婚ある教え子との恋愛に苦しみ、関西放浪の旅へ出たこともある。不都合なことがあると逃げ出す行動パターンは、この頃から見られていたのである。
明治38年(1905)、文学を志した藤村は女房子ども連れで仙台から上京し、部落差別を扱った大作『破戒(はかい)』の執筆にとりかかる。翌年、自費出版された『破戒』は大ヒットしたため、一家の生活も少しは楽になったが、作品の完成まで極貧生活を強いた3人の娘たち、そして妻を栄養失調で死亡させてしまった。
それでも4人の子どもは生き残ったので、彼らの世話係として、藤村にとっては姪にあたる島崎ひさ、こま子の姉妹が彼の家に住み込みの手伝いとして来てくれることになった。
しかしやがて、藤村はこま子に罪深い思いを抱くようになる。<(※190)八年から十一年にかけて、藤村と姪(※こま子)とは、上野公園下の池ノ端(いけのはた)で時おり逢って語りあったが、消そうと努める藤村への姪の思慕は募るばかりであった>(※『論集 島崎藤村』)。家の中では家族の目があるから、わざわざ外で逢い引きしていたのだが、ひさが結婚して藤村の家から出たあと、藤村とこま子は抜き差しならない関係に陥ってしまう。
近親相姦を『新生』で暴露
こま子が19歳だった明治45年/大正元年(1912)半ば、ついに二人は肉体関係を持ったが、その翌年、藤村は自分の子を妊娠中のこま子をひとり残し、フランス留学という名目で船に乗って逃亡してしまった。しかも船に乗り込んでから、実の姪・こま子との近親相姦を兄にあらいざらい告白し、処女だった彼女を妊娠させたと懺悔する手紙を送りつけたのだ。兄は悶絶するが、こま子の将来を考え、黙秘を選択する。その後、こま子が産んだ赤児は里子に出されてしまった。
3年後、藤村は何食わぬ顔で日本に帰国してくるのだが、こま子の気持ちは冷めておらず、藤村のことをいまだに激しく求めているのだった。こま子と藤村は禁断の愛を再燃させてしまう。しかし、20代半ばを過ぎてもなお<自分達は一般の人とは違う尊い真の生活をいとなんでいるのだ>(※小島信夫『東京に移った同族』)と言って聞かないこま子は、藤村には重荷になってきた。愛に盲目すぎる姪が怖くなったのかもしれない。
こま子を切り捨てたい藤村は、自分と彼女の近親相姦について記した実録小説『新生』を執筆し、朝日新聞の新聞小説として発表してしまう。彼女から送られた<二人して いとも静かに 燃え居れば 世のものみなは なべて眼を過ぐ>、つまり「藤村以外、私には何も見えない、見たくない」と言っているに等しい愛の歌も小説に引用し、世間に晒した。
この暴露小説によって、こま子は台湾にいる伯父のもとに送られ、藤村との関係は強制終了することになった。