文壇を驚かせた「細君譲渡事件」
『痴人の愛』を生んだSM恋愛

今回紹介する文豪(2):谷崎潤一郎(1886–1965)
小説家。東京・日本橋蠣殻町(現在の人形町)の商人の家に生まれる。実家の経済状況が悪く親戚の援助で東大に進学するも中退。デビュー作『刺青』を永井荷風が激賞。耽美主義的作風は悪魔主義とも言われた。関東大震災を機に関西に移住、古典文学の教養を背景にした『蘆刈』『春琴抄』『細雪』。老人の変態性欲を描いた『鍵』など。
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 谷崎は生涯で3回結婚した。大正4年(1915)、29歳のときに結婚した石川千代は彼の最初の妻で、もとは向島の芸者だった。谷崎が本当に惚れていたのは千代ではなく彼女の姉で、やはり芸者あがりで、当時は「嬉野」という料亭の女将をしていたお初だった。

 学生時代からお初が目当てで、この店に出入りしていた谷崎は、作家として成功したあとは入り浸ったが、お初からは「私には旦那がいるから……」とフラれてしまい、かわりに「私の妹ならあなたにお似合いよ」とあてがわれたのが、千代だったのだ。

 谷崎はサディスティックであると同時にマゾヒスティックな傾向も強く、彼にとって恋い慕うお初は「女王さま」にほかならず、彼女の命令ならば……というノリと勢いで、物静かで古風な千代と結婚することにした。

 しかし谷崎はおとなしい千代にすぐに飽きてしまい、小田原に構えた新居にもすぐに寄りつかなくなった。おまけに千代の年若い妹で、自由奔放なせい子という娘に岡惚れし、彼女を横浜にあった「大正活映」という映画会社の看板女優にすると言い出して当地に家を借り、同棲まで始めてしまったのだ。

 せい子は谷崎など歯牙にもかけない様子だったが、一方的にせい子を崇め、奉るかのように奉仕する谷崎は、やがてこの倒錯した関係が新作のテーマになると思いつき、『痴人の愛』を執筆した。

知人に自分の妻を譲る

 谷崎は、妻の千代に「私のほかに恋人を持ちなさい」と言っていた。せい子が成人したら、彼女を妻にするつもりだったからだが、そんな谷崎のことなど、せい子は金づるのおっさんだとしか見ていなかった。一方、千代は谷崎の後輩作家・佐藤春夫とねんごろになってしまっていた。せい子から完膚なきまでにフラれた谷崎は、千代と別れれば自分は孤独になってしまうことに気づき、いまさらながらに千代に執着し、離婚を拒むようになる。

 千代と結婚できるものと思っていた佐藤は、「妻とは別れる」という約束を反故にした谷崎に激怒し、大正10年(1921)、彼に絶縁状を送りつけた。佐藤は愛する千代にも別れの手紙を送り、<私はあなたを憎めないけれども、あなたは私を、あなたの最愛の夫の敵として憎んでください>、<今度こそとうとう永久にさようならです>と涙ながらに告げたものの、千代への思いは尽きることがなかった(※佐藤春夫『谷崎千代への手紙』)。

 事態が大きく動くのはこの「小田原事件」から4年後のこと。谷崎が千代との離婚に踏み切ったのだ。昭和5年(1930) 8月17日、谷崎は、千代との離婚を関係者に報告した。しかし、これは並の離婚通達文ではなかった。「谷崎は妻だった千代を佐藤春夫に譲るが、谷崎と佐藤はこれまでどおりの交際を続けるから、みなさまにもご了解願いたい」などと書かれ、文壇関係者を驚かせた。

 谷崎の真意は、のちに彼の2番目の妻となる女性編集者の古川丁未子(とみこ)と、3番目の妻になる根津松子という存在をキープできた今となっては、千代などお払い箱にしても、痛くも痒くもなくなったということにすぎなかった。谷崎潤一郎は、文学史上まれに見るほどのエゴイストであったと言える。