この2つの立場は、資本主義の暴走と新自由主義的政策を批判する点では共通しているが、民主主義を善玉とするか悪玉に据えるかにおいて鋭く対立しているように見える。

 森は両者が用いる民主主義概念の相違にその原因を求めている。つまり、「終焉」論者が民主主義のことを、資本主義に代表される社会的現実に対抗する規範や理念だと考えているのに対して、「過剰」論者は民主主義のことをまさにその社会的現実そのもの、社会が向かっている傾向として見ているという。

 それは確かにその通りなのだが、そもそも同じ民主主義という言葉が何故こうも対立的な概念として想起されてしまうのかを、よく考えてみる必要がある。

高度に発達した民主国家で
「民主主義を守れ」と叫ぶ空虚さ

 例えばこれがヨーロッパ社会で階級対立が顕在的であった時代の議論であれば、両陣営がどの社会集団に属しているかによって民主主義に対する心理的距離を説明することはもっと容易であった。

 いわゆる「左派」は、恵まれない貧しい者たちを代弁する側としてこれから実現していくべき民主主義の理念を擁護するのが当然だっただろうし、「右派」は自分たちの価値観や既得権益に挑戦してくるこうした勢力を眼前の敵だと見なし、民主主義というものをより実体化した現実として憎んだことだろう。

 しかし、現代の欧米諸国や日本ではどうだろうか。グローバルに展開する未曾有の格差社会という現実を顧みると、こうした社会対立がとっくに解消され過去の遺物になったなどという楽観的な見方はできないまでも、少なくとも民主主義に基づいた制度や文化がこれほどまでに社会に定着した時代はないのではないか。

 もし仮にそうだとすると、ある意味では非常に奇妙なことに、実は「終焉」論の方がこの争いでは分が悪いように見える。民主化の進んだ社会において、民主的な手続きによって民主主義が縮小していることを「民主主義の終焉」と呼んで嘆いたり批判したりするのは随分と虫のいい話だからだ。

 それよりも、民主主義の進展を敵視し警戒してきた「過剰」論の方が、事実認識の面でも思想的一貫性においてもまさっていると言わざるを得ない。それは、民主主義が良いものとされ続けてきたこれまでの一般的通念からすると、あまりにも意外かつ苦々しい結果だと言える。

「終焉」論より「過剰」論の方が説得的であるということは、裏を返せば規範や理念としての民主主義というビジョンが有効性を持たないことを意味している。「民主主義を推進しろ」「民主主義を守れ」とどんなに叫んでも、これほど民主主義が栄えた時代にその声は空しく響かざるを得ない。