しかし、そもそもである。ここで敢えて「終焉」論者の意見に従って、制度的現実としての民主主義が理念としての民主主義を封殺しようとしているとしよう。では、そこで封殺されつつある民主主義の理念とは実際にはどのようなものなのか。より公正な選挙だろうか。より開かれた議論だろうか。それとも、よりいき届いた福祉だろうか。

民主主義自体に崇高な理念などない
それは政治参加の「方法」にすぎない

 ここに民主主義の抱える大きな問題がある。それは、民主主義の理念などと言ってもそれは所詮手続き、つまり「方法」に関する理念に過ぎないという問題である。

 当たり前と言えばあまりに当たり前だが、民主主義とはまずは人民の意見を政治に反映し、その決定に人民が従うという政治体制のことであり、人民の意見は多様かつ流動的なのでその政治体制のもとでは政策決定も多様化し流動化する。

 だから、公正な選挙を求めることもあれば選挙の停止を求めることもでき、自由な言論を促進することもあれば言論を制限することもでき、福祉を拡充することもあれば福祉を縮小することもできるのである。

 しかも、その極端なスイングは、選挙結果を重視し言論の自由を許し人民の福祉が優先されるほど大きくなる。「過剰」論者はこうした民主主義の持つ放埒さに警戒してきたのだ。

 それにもかかわらず「終焉」論者は、こうした性質を持つ民主主義を称揚しつつ、それが自己破壊的に作用することを批判するというダブルスタンダードを採ってしまう。話は逆であり、民主主義は自己破壊を許すほど気前の良い「方法」であり、それがここまで普遍化したからこそ自己破壊も徹底的になったのだ。彼らはむしろ自分たちが支持してきた民主主義の理念を誇るべきとさえ言える。

書影『ておくれの現代社会論:○○と□□ロジー』『ておくれの現代社会論:○○と□□ロジー』(ミネルヴァ書房)
中島啓勝 著

 もちろん、「終焉」論者がそのような意見に従うはずはない。

 しかし、そうだとすれば彼らが本当に大事だと考えてきたのは民主主義そのものではないと認めるべきだろう。民主主義が(彼らが望む方向で)上手く機能するために必要な規範や理念、民主主義を支える前提こそが大事だったのである。

 これは民主主義という「方法」の擁護者の多くもたびたび言及していたことであり、何も目新しい主張ではない。それなのに、ここに来て民主主義に対してここまで失望感が高まっているということは、口ではカッコつけていてもやはり多くの人々は民主主義そのものをいつの間にか理想化してしまっていたのだ。