なぜ日本人は「他人に迷惑をかけること」を過剰に恐れるのか。そして、なぜ自己感情よりも社会的アイデンティティを重視するのか。心の診察を通じて多くの日本人と向き合ってきたイタリア人精神科医が、日本社会特有の奇妙なコミュニケーションについて問題提起する。本稿は、パントー・フランチェスコ『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。
「迷惑行為」を過剰に心配する
世界的に特殊な日本社会
筆者の私見では、自己記述に「関係性」「状況」を重んじる日本社会は個人的アイデンティティをないがしろにし、社会的アイデンティティを過剰に発生させる環境にある。その傾向ゆえに、パーソナルなコミュニケーションの機会が少なくなってしまう。
この持論の根拠を、違う角度から説明してみたい。
日本社会において「他人に迷惑をかけること」は最悪の行為とみなされている。他者に迷惑をかけるのを必死に避けようとする社会は、社会的アイデンティティに偏りやすいと思う。というのも、他者に迷惑をかけるリスクを考えれば、絶対に自己の感情表現を優先しないからだ。
「迷惑をかけたくない」という日本人の気持ちが最もよく表された日本語は「遠慮」だと思う。他者に助けを求める行為、自分の感情をあらわにする行為は必死に避ける。なぜなら、他者に不愉快と思われるのは最上の罪とされているから。
ここでは迷惑をかけることを、相手の気を悪くする行為と定義したい。この相手とは個人の場合もあれば集団の場合もある。別に「迷惑行為」は日本社会に固有なものではないが、自己の感情を犠牲にしてでも懸命に迷惑行為を避けるほどの「迷惑(忌避)文化」は特殊なものかもしれない。
迷惑をかけるのが良くないということ自体は、常識のある人間なら誰だってわかる。自分本位で欲望におぼれ、礼儀作法を忘れ、道徳をないがしろにすれば、どの社会でも戒めを浴びせられることになる。その「罰」をおそれ、人間は常識の範囲を外れた迷惑をかけない。
迷惑を避けることは社会学的なメカニズムである以上に、生き物の共存に必要な生物学的な機序である。
とはいえ、どうして日本社会には強力な「迷惑文化」が存在すると主張したいのか。日本社会は迷惑行為によって起こりうる他者への不利益を、過剰に案ずる傾向があるのではないかと思う。たしかに相手のパーソナルな部分に触れることで、相手が不愉快になる可能性はどうしてもある。しかしながら、それはポジティブな刺激をもたらすかもしれない。他者のパーソナルなスペースに足を踏み入れることで初めて、その人を助けることができるだろう。