社会学者の大川清丈は『がんばること/がんばらないことの社会学』という著書の中で、日本人に特有な努力主義を描写している。そこでの議論を整理すると、「頑張ればできる」という信念は常習的なものであり、その発想自体は無害に聞こえるかもしれないが、「頑張ってうまくいかなくても、もっと頑張れば必ずできる」と期待するところに問題がある。

「頑張る」ことに過度に頼るのは危険である。「もっと頑張れば成功できる」という発想につながるからだ。裏を返すと、失敗の原因は自分が十分頑張らなかったから、怠けたからという考えに行きつき、自責の念を膨らませることになる。

 成功を導くのは自分の努力だけでなく、運や元々の才能や環境的な要因など、多因子的なものであると認識した方が良い。本人の努力による部分は当然あるが、それが全てではないと知るのが大事だろう。日本社会では、どうしても自己責任が強調される傾向があると感じる。

才能より努力を重視する
「能力平等感」にひそむ危険性

 こうした議論は『タテ社会の人間関係』の著者・中根千枝も言及している。中根は日本社会が「能力平等感」に基づいていると指摘した。「能力平等感」というのは出世できる、できない人を選り分ける際に、才能より努力を重視する考え方である。この考え方は、個人の生まれつきの能力は同様で、努力を重ねれば誰だって成功できるという信念から成り立っている。極端にいえば、成功できない者は努力をせず怠けているから、ということになる。

 一方、欧米社会は「能力不平等感」がベースになっている。どれだけ努力しても、生まれつきの才能や環境による違いは重いものだと信じられている。そもそも、能力不平等感を前提にした社会では、人生において成し遂げるものが人によって必然的に違う。

 日本にはどうしても本人の努力そのものを美徳と捉える傾向がある。それ自体はある意味では長所でありすばらしい面もあるが、「努力しても成し遂げられないときは諦めてもいい」という側面がセットにならない限り、失敗は全て本人の責任になってしまう。このような、努力自体を美徳と捉える考え方は「努力至上主義」と呼んでもよいだろう。