人は自らの弱点を受け入れることで、ユニークな存在として生きられる。それなのになぜ、日本人は自分や他人に完璧さばかりを求めてしまうのか。イタリア人精神科医である著者が、日本とイタリアの若年層のコミュニケーションの違いや「スクールカースト」という現象を通じて、偏狭な価値観を浮き彫りにする。本稿は、パントー・フランチェスコ『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。
脆弱な部分を隠して
完璧であろうとする日本人
そもそも、私たちは誰もが脆弱な存在だ。みな脆弱性を大なり小なり備えており、そこから簡単に逃れられない。我々に残されているのは、自身の脆弱性を受け入れるか受け入れないかの二択である。しかし、脆弱性を醜さや弱さとして扱ういまの世の中では、自分の脆弱性を隠す努力をして、そもそも脆弱性が備わっていないように振る舞う人が多い。個人主義の要素が強い社会でも、その人の固有性が褒め称えられる文化背景はあっても、脆弱性に対する先入観はなくなっていない。
脆弱性を敬遠する社会では、私たちは手に届かない「完璧」という幻を追い求めることになる。難しい基準を生み出し、それに適応できない者を排除する。無理に完璧を装い、自分の脆弱性には見て見ぬふりをする。
脆弱性を有害なものかのように扱い、その役割を理解できない限り、人間個人の固有性の尊さも理解できないのではないだろうか。きれいごとだと思う人がいるかもしれないが、筆者は一科学者として断固、そうではないと主張したい。人はその弱点をもって受け止められるからこそ、ユニークな存在として生きられるのだ。
そう考えたときに、日本社会が脆弱性の尊さを認めている社会なのか、どうしても疑問が湧いてしまう。
学術的な比較ではないが、日本とイタリアにおける若年層のコミュニケーションの違いから、その理由を説明したい。舞台はとある高校の教室だ。なお、この会話例は筆者が見聞きしたいろいろなケースから特徴的な部分を抜き出したものである。
【日本の場合】
学生A「ねえねえ、翔太くんと佐野ちゃんは付き合うべきだと思わない?翔太くん運動神経いいし、勉強もできるし、顔もいいし。男子からも憧れられてるし、お父さんは医者らしいよ。佐野ちゃんはまず可愛い!頭もいいし、みんなに優しいし、完璧すぎない?」
学生B「しかもその2人が付き合ったら、子どもの顔やばくない!?絶対モデル顔じゃん」
学生A「ね~!」
【イタリアの場合】
学生A「ルカは本当に優しいね。いつも面白い話してるし、この前もずっと付き合ってくれたし。話しやすいしかっこいいよね~。数学も、ルカが教えてくれるおかげで先生に質問する必要もないもんね」
学生B「キアラは医者になりたいらしくて、すごく勉強してるみたい。先生たちもみんな褒めてるけど、大変そうだね。彼女は認めたくないだろうけど、疲れていると思うんだよね。ちょっと話しかけてみようか」