加害者であり被害者でもある
というレトリック

 ここでアニメ表現をめぐる対立に話を戻すと、性加害が表現によって助長されているか否かは措くとしても、性被害が実際に数多く生じていることを疑う余地はありません。2023年8月から10月にかけて実施された東京都の調査では、女性の4割以上、男性の約1割がこれまでに痴漢被害に遭ったことがあると回答しています。

 さらに、2023年6月には日本や中国などで実際に行われた痴漢の動画をネット配信することで利益を上げる在日中国人グループの存在が報道されています。映像に対する需要が、実際の被害をさらに悪化させるという構図まで生まれてしまっているのです(もちろん、これはあくまで盗撮映像であり、フィクションであるアニメ表現の話と混同されるべきではありません)。私の専門に近いところで言えば、『マスコミ・セクハラ白書』という著作をひも解くと、メディア業界で働く女性が社内や取材先でどれほど日常的にセクハラにさらされているのかが克明に論じられています。

『ネットはなぜいつも揉めているのか』書影『ネットはなぜいつも揉めているのか』(津田正太郎、筑摩書房)

 他方、アニメ表現に好意的な、いわゆる「オタク」と呼ばれる人びとについても、1988年から89年にかけて発生した東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件なども要因となって、偏見に満ちたまなざしを向けられてきた歴史があります。また、1990年代初頭には「有害コミック」追放運動が発生し、2010年には東京都議会で「非実在青少年」の表現に規制を設けようとする動きがみられました。さらに、性的描写の多い作品に対しては自治体による「不健全図書」または「有害図書」としての指定が頻繁に行われており、その指定を受けると流通が著しく困難になるケースがあるとも指摘されています。被害者意識が生まれる理由は確かに存在するのです。

 このように、被害者としての地位をめぐる競争はあるとしても、被害者/加害者という関係は現実に存在するのであり、被害の訴えを道徳的に有利な立場を手に入れるためのレトリックにすぎないと片づけることはできません。