被害者としての「免罪符」を獲得すれば
「純粋さ」と「誠実さ」を保証される世界

 庄司による次の記述は、被害者であることが免罪符になりうるがゆえに、誰がもっとも脆弱な被害者なのかをめぐって一種の競争が起きてしまう状況をコミカルに描き出しています。

「おれは頭が悪いから」「おれは貧乏だから」「おれは体が弱いから」……。よく考えてみれば、こういう言葉がなんの解決にもならぬことは分かりきっているのだが、こういった言葉が誰かから出たとたんに、そこには一種の「問答無用」の空気が若者の間ではできあがってしまう。もちろん「問答」が続く場合もあるが、それは、「いやおれの方が頭が悪い」「おれだって金がない」「おれの方が病気で苦労してる」といった方向で、ひたすらせり合うことになる。

 そしてこの場合の勝利者は、すなわち一番能力が低くダメな「力」のない存在、競争においてもっとも傷つきやすく負けやすい弱い若者ということになり、そして彼は、言い換えればもっとも「加害者」から遠い「被害者」として一種の「免罪符」を獲得し、その「純粋さ」「誠実さ」を保証されるような感じになる。そして、どういったらいいか、たとえば「彼」の前に出ると、他の若者たちはみんなうしろめたい思いをする。

 ここでまず注意する必要があるのは、庄司が論じているのとは異なり、被害者になろうとする心理がみられるのは若者に限らないという点です。さらに、被害者の地位をめぐる競争が起きているという指摘が、現実に存在する被害の訴えを無効化してしまいかねないという点も重要です。つまり、「誰もが被害者になろうとしている」という主張が、本当に苦しんでいる人の訴えまでも数あるクレームの一つにしてしまいかねないのです。

 実際、庄司にしても「ヒトラーも一ユダヤ人も、ともに人間として「加害者」であると同時に「被害者」であると述べることは、確かに人間一般の存在の仕方についての考えとしては正しいかもしれないが、実際問題としては「加害者」としてのヒトラーへの批判を不当に相対化してしまう効果」があると述べています。