従兄弟の影響で
海軍士官になると決意

 小学校4年からは学校での軍事教練が始まった。隊列を作ったり、木の銃を持って行進させられたりした。小学校5年ともなると、社会科の授業でこの戦争の目的などについても教わるようになった。米英を中心とした列強各国が、アジアを植民地化するのに対抗した正義の戦争だ、と。だから君らも早く大人になって、戦争に参加して、天皇陛下のために名誉の戦死を遂げよ、そう言われた。

 僕は、天皇陛下のために軍隊に入り、天皇陛下のために出征し、天皇陛下のために死ぬということに、まったく疑いを持っていなかった。学校で各種式典を開催する時には、必ず昭和天皇の御真影が講堂の奥に飾られた。いまの北朝鮮の金(日成、正日、正恩)ファミリーではないが、まさに画に描いたような神格化だった。「陛下のお顔を直接見てはいけない。額の下の縁までだ。直接見たら目が潰れる」とも教育されていた。

 先輩たちは高等小学校(※編集部注/1941年以前の呼称。以降は、国民学校高等科と呼んだ。修業年限は12歳からの2年間)を出ると、予科練(※編集部注/海軍飛行予科練習生)に入ったり、中学校(※編集部注/旧制中学の修業年限は12歳からの5年間。のちに4年に短縮)を卒業して海軍兵学校(海兵)や陸軍士官学校に進学したりしていた。僕は、海兵入りが決まっていた従兄弟に憧れ、海兵に行こうと思っていた。海軍兵学校というのはエリートで、なぜ海軍かというと、陸軍は行軍がある。歩かなきゃいけない。海軍は甲板の上だから歩かなくていい。それで海軍を選んだ。僕は子どもの頃から、こすっからいところがあったのかもしれない。

よくわからなかった
「玉音放送」の内容

 戦争末期、燃料不足になって、クラス全員で列を作って山に松脂を採りにいったのも忘れられない。松の幹に傷を付けて竹のコップを置いておくと自然に松脂がたまる。それを回収し、航空用ガソリンの代替物として利用しようとした。総力戦とはよく言ったものだ。

 その時歌ったのが、「勝ちぬく僕等少国民」(作詞・上村数馬、作曲・橋本国彦)という歌だった。少国民とは、日中戦争から第二次世界大戦までの日本において、銃後に位置する子どもを指す言葉だった。年少の皇国民という意味だ。