エリートのものだった「教養」が
労働者階級にも広がった50年代

 1950年代、官公庁や大企業の事務員をやっているサラリーマン層と、農業や工場の労働に従事している労働者階級では、とくに書籍の普及率は異なっていた(久井英輔「戦後における読書行動と社会階層をめぐる試論的考察―格差の実態の変容/格差へのまなざしの変容」)。端的に言って、書籍はサラリーマンのものだった。しかし一方で、雑誌はサラリーマンも労働者階級も変わらず読んでいた。戦後になって、労働者階級も雑誌を買うようになっていたのだ。

 私は大正時代からはじまる教養主義について、以下のように考えている。

 私たちが現代で想像するような「教養」のイメージは、大正~昭和時代という日本のエリートサラリーマン層が生まれた時代背景によってつくられたものだった。労働者と新中間層の階層が異なる時代にあってはじめて「修養」と「教養」の差異は意味をなす。

 だとすれば、労働者階級と新中間層階級の格差があってはじめて、「教養」は「労働」と距離を取ることができるのだ。

 大正時代から戦前、「教養」はエリートのためのものだった。

 だが戦後、じわじわと労働者階級にも「教養」は広がっていく。それはまさに、労働者階級がエリート階級に近づこうとする、階級上昇の運動そのものだった。

 1950年代、中学生たちはふたつの進路に分かれざるをえなかった。就職組に入るか、進学組に入るか。1955年(昭和30年)には高校進学率が51.5%になっていた。2人に1人が就職する時代だ。結果的に高校進学率が低かった時代と比較して、家計の事情から就職せざるをえなかった人々の鬱屈は増した。

 その鬱屈ゆえに、定時制高校に働きながら通う人々は増えた。50年代半ばまでに50万人を超えた「働きながら高校に通う青年たち」が求めたのは、「教養」だったのだ。教養は、家計の事情で学歴を手にできなかった層による、階級上昇を目指す手段だった。学歴が階級差として存在していた当時、そこを埋めるのは、教養を身につけることだったのである。