しかし定時制高校に通える時間のある人々ばかりではない。そんな彼らが読むようになったのが、当時流行していた「人生雑誌」だったという。

 人生雑誌への掲載が優越感をもたらし、低学歴のコンプレックスをいくらかでも和らげたであろうことは、容易に想像できよう。実利や学歴を超越した「生き方」「教養」への志向が、相当な倍率の選別を経て、編集部に承認される。それは、学業優秀ながら高校や大学に進めなかった勤労青年読者の鬱屈を和らげ、その自尊心を少なからず満たすものでもあった。
(福間良明『「働く青年」と教養の戦後史―「人生雑誌」と読者のゆくえ』)

「葦」や「人生手帖」といったいわゆる「人生雑誌」は、学歴や就職を度外視した「教養」について語る特集が多かった。なにより特別だったのが、読者の投稿を掲載していたことである。農村にいる勤労青年、女性たちの内面がそこで吐露された。あるいは文通欄を設けた。

 そう、雑誌が、一種のコミュニティ─今で言えば異なる地方にいる人同士が同じ悩みをシェアするSNSのような役割を果たしていたのである。

 人生雑誌には「農村では親に、夜いつまでも電気をつけて本を読んでいることを咎められる」という投稿や「農村の嫁にももっと自分の時間が欲しい」という声、「農家の次男は学歴がないのに就職しなくてはならず、困っている」という悩みが掲載されていた。そのような鬱屈を共有できる場として、雑誌があった。

 もちろん旧制高校、あるいは大学を卒業していた都市部のサラリーマンたちも、戦前から引き続き、同様に「教養」を求めていた。世は空前の教養ブームだったのである。戦前の「円本」ブームの再来かのように、戦後、「全集」ブームがまたしてもやってきた。