早川徳次が見た
戦時のイギリス
高野登山鉄道の再建を果たした早川は、有効活用されていなかった大阪港を見て、鉄道先進国イギリスに留学し鉄道と港湾の関係を研究しようと考えた(前述のように、これは放棄されて地下鉄に傾倒する)。早川は1914年8月に横浜港を発つが、準備の過程で欧州情勢が急激に緊迫化していったことが分かる。
早川は10月にロンドンに到着するが、航海中の9月6月には、パリに進軍するドイツ軍をフランス・イギリス連合軍が迎え撃つ「マルヌ会戦」が勃発。必死の抵抗でドイツ軍を食い止め、パリを陥落の危機から救ったことで、ドイツがもくろんだ短期決戦は頓挫し、「すぐに終わる」とみられていた戦争は長期化が避けられなくなった。
そこで総合的な国力で劣るドイツは、イギリス領土内の民間施設に対して空襲し、国民の継戦意思をくじくことで早期決着を狙おうと考えた。史上初の「戦略爆撃」である。最初の空襲は1915年1月19日、イギリス南部の港湾都市グレート・ヤーマス、キングズ・リンに対して行われた。まだ航空機の黎明期であり、大量の爆弾を搭載した長距離飛行は不可能だったので、空襲は2隻のツェッペリン飛行船で行われた。
早川は帰国後、イギリス滞在中の日記をまとめた書籍『大英国の表裏』を出版しており、1月20日の項で本土初空襲に触れている。彼の目に映るイギリスは、開戦半年が経過しても、兵士募集の広告と軍服姿の兵士が増える以外、変わりない日常生活を送っていたが、そんなイギリス国民も、本土空襲にはさすがに衝撃と恐怖を覚えたようだ。
4月までに6回の空襲が行われたが、イギリスは講和に応じなかった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は標的の拡大には消極的だったが、イギリスを屈服させるにはロンドン空襲が必要という軍部の意見を受け入れ、5月31日にロンドンに対する初の空襲が敢行された。
夜の闇に紛れ、当時の戦闘機や高射砲が届かない高度3000メートルから爆弾を投下する飛行船に対し、イギリスは無力だった。空襲は8月ごろから再び激化し、ロンドン中心部「シティ」にも大きな被害が生じている。
『大英国の表裏』に収録された日記は1914年10月から1915年3月までなので、ロンドン滞在中の早川が空襲をどのように受け止めたのかは分からない。ただ、彼は1915年9月から10月にかけて、ニューカッスル・アポン・タイン、エディンバラ、グラスゴー、ホリーヘッド、ベルファストと、イギリス国内を巡っており、これは空襲が激化するロンドンから疎開する意味もあったのかもしれない。