ドイツの無制限潜水艦作戦により
海の藻くずと消えた可能性も

 早川がロンドンに戻ったのは冬を迎え、ロンドン空襲がいったん終了した11月のことだ。しばらくロンドンに滞在したが、1916年3月になると早川は再びロンドンを離れる。彼が向かったのは、戦場であるヨーロッパ大陸だ。

 3月にイギリス南部の港町フォークストンからフランスに渡り、ディエップ、パリ、ベルガルド、続いてスイスに入国しジュネーブ、ウシー、チューリヒ、ベルンを巡った。4月にフランスに戻り、再びベルガルド、パリ、ディエップを経由してロンドンに戻る。6月にリバプールから大西洋航路でカナダのオタワに終わり、アメリカに入国する。

 この中で当時、地下鉄が存在した都市はロンドン(1863年開業)、グラスゴー(1896年開業)、パリ(1900年開業)、ニューヨーク(1904年開業)のみであり、その他の都市を訪問した意図は分からない。

 この間、早川は何度も旅客船に乗っているが、現代から見ればこれも危険と背中合わせだった。ドイツ軍のもう一つの切り札が潜水艦「Uボート」である。戦艦や巡洋艦など水上艦戦力で劣るドイツ海軍は、Uボートを連合国輸送艦に対する「通商破壊」に活用した。

 ドイツはイギリス本土空襲と並行して、1915年2月18日から連合国に関係すると判断した軍艦、民間船を無警告で撃沈する「無制限潜水艦作戦」を開始。イギリスに圧力をかけて講和を迫った。

 早川は2月6日の日記で、ドイツが世界一の海軍国イギリスに対して封鎖を宣言するとは笑止というのがイギリスの世論であり、意に介さないという態度を装っているが、それは表面上の強がりで、実は大いに心配しているらしいと記している。

 無制限潜水艦作戦は当然の帰結として、悲劇を生んだ。同年5月7日、Uボートがアイルランド沖を航行するイギリス客船「ルシタニア号」を撃沈し、当時中立を保っていたアメリカの民間人約130人を含む約1200人が死亡したのである。

 アメリカの参戦を恐れたヴィルヘルム2世は、中立国船舶、大型旅客船を攻撃対象としない旨、アメリカと覚書を交わすが、8月にもイギリス客船が撃沈され、アメリカ人乗客が死亡する事態となり、無制限潜水艦作戦は同年9月に中止された。

 前述のように早川は、同年9月から10月にかけてホリーヘッド~ベルファスト間の旅客船で北アイルランドにも渡っているが、それは無制限潜水艦作戦の中止を受けたものだったのかもしれない。その後、ドーバー海峡を渡れたのもUボートの脅威がいったん、収まったから可能になったものだ。

 しかし、戦局が劣勢になると、ドイツは無制限潜水艦作戦を1917年1月に再開した。出国が半年遅れていたら北米に渡れなかったか、タイミングによっては「地下鉄の父」は海の藻くずと消え、日本の地下鉄史も変わっていたのかもしれない。