稲盛氏が「不言実行」を
「ナンセンスだ」と切り捨てた理由

 青山氏は「不言実行」を処世訓(生き方の指針)の一つとして、守り抜いてきたのだという。しかし、この青山氏が後生大事にと守ってきた「不言実行」が、「無残にも稲盛によって打ち破られた」(同書)のである。

《稲盛は会議の席上で黙っている者を嫌う。どんどんしゃべれと言う。不言実行とか能ある鷹は爪を隠すという言葉は、昔の封建時代では人間として奥ゆかしさがあり、誠実さが感じられたが、科学文明の発達した今日、企業の経営上からは全然ナンセンスである。「知りて言わざるなく、言いて尽くさざるなし」であらねばならない。自分の言った言葉で縛って、責任でガンジガラメにして逃げられないようにすることが頑張りを要求され、努力が強要され、仕事ができるのであって、なるべく言わないように逃げるようでは仕事はできない。へまなことを言えばもちろんたたかれる》(同書)

 会議において奥ゆかしさなど要らない。知っていること、伝えたいことをガンガンぶっ放せと稲盛氏は考えたようだ。逆に、何も話さない人たちを嫌っていたようだが、そういった人たちは、眼中にも入らなくなっていったのではないだろうか。

《(人は)たたかれて鍛えられ、向上するのである。試験勉強のように我々凡人はガンジガラメにされないと頑張れない。十言っても、五しかできなかった。三言って三できたのと、どちらが成績が良いか。修身の教えとは違い、実績がものをいう。これが企業だという。もちろん十言ったら、十できるよう言った責任を感じ、頑張り抜かねばならない。しかし五しかできなかった、やむを得ないではないか。次は十言ったら十できるよう頑張るのだ。三言って三できた、これで言った通りできたって何の自慢にもならない。多言実行の精神こそ企業の真髄だと言う。人間も鉄のように熱いうちにたたかれ鍛えられて成長するのだ。ドンドンしゃべれ、しゃべってたたかれよ。(稲盛氏は)しゃべれないやつは何もできないと言う。私は多言実行なんて言葉は聞いたことがなかった。ヒョッとしたら稲盛の発明かもしれない》(同書)

 少し難しい言葉がでてきたので、簡単に解説すると、「修身の教え」とは、今でいう道徳だ。個人の道徳性や倫理性を高め、社会の中での正しい振る舞いを目指すことを奨励する教えだ。

 ただ、これを重視しすぎると、権威ある人物へのむやみな服従を招いてしまったり、批判的な精神を弱めてしまったりするのではないかと筆者は危惧している。年長者への敬意はいいのだが、それと相手の言っていることが正しいかどうかは全く別だ。私の経験上、権威をかさに着て話す人は、内容を間違えているケースが多い。