東京のオフィスに出社したら、窓際にポツンと私のデスクが置かれていました。文字通り窓際族です。

 ちなみにその時の私の人事考課は「CCC」。ABCの3段階評価のうちで最低評価のCが3つ並んでいた。学校の成績でいえば「オール1」といったところでしょうか。

 採点者は自分の持ち点の分配に苦労するのが常ですから、一点も与える必要のない「辞める人」は有難い存在です。ですから「これは当然」と私は思っており、気にもしていませんでしたが、やはり制度上、この影響はしばらくは残ります。

 私は悪びれることもなく、それまで通りのやり方で、頼まれた仕事は何でも普通にこなしましたが、たまたま当時の伊藤忠が全社を挙げて取り組んでいた「通信事業」は、常人にはちょっと難しい分野だったので、私が培ってきた識見と能力は捨てがたいものだったようです。

 私は次第に再び重要な仕事を任される様になり、相当高い地位まで上り詰めることになります。

 言いたいことを言い、やりたいことをやっていれば、時には冷や飯を食うのも当たり前。

 ビジネスパーソンはそれを覚悟で挑戦しないといけません。

 知識と経験を積み上げていく努力を怠らず、目的意識と意欲を失わなければ、いつか必ず道は開けます。

孫正義氏との出会い

 そして56歳、定年まであと4年を残して伊藤忠を退職します。当時の私は、会社全体の中でも枢要な地位を占めていた宇宙情報部門のナンバー2。うまく立ち回ってそのまま会社に残れば、役員への道ももしかしたらあったかもしれませんが、私にはそのようなシナリオへの関心は全くありませんでした。

 大組織のトップはどんな時でもあまり危ない橋を渡るわけにはいきません。私のような性格の人間には大企業のトップは向いていないと、私はずっと自分なりに判断していました。

 退職してすぐコンサルタント会社を立ちあげ、いくつかの会社と顧問契約を結びました。その中の1社がアメリカのモバイル通信技術の会社クアルコムでした。

 日本での事業展開をアドバイスするうちに、その将来性にほれ込んで、自ら売り込み社長に就任しました。59歳の時です。