しかし、日本ではまだベンチャーという言葉すら知らない人が殆どだった時代で、しかもその主力となると目されていたのは、エレクトロニクスと言っても、それまでの通信や放送や家電とは全く色合いの異なる「コンピューターサイエンスがらみの仕事」でしたから、その分野での経験が皆無だった私は、一から全てを自分で考えねばならず、後から考えると信じられないぐらいの見当外れを繰り返したようです。
結果として、投資も事業もやることなすこと大失敗ばかり、一から自分で始めた最先端の多機能電話システムの製造販売会社は、在庫の山でにっちもさっちも行かなくなり、ついに資金が尽きました。
日本から後輩が来て、「伊藤忠の名前で売った機器のアフターサービスは、誰かがやらなければならいので、それをやってくれますか?」と言う。
私は小さなデスクと電話機ひとつを与えられ、たまにかかってくる電話に応対するだけという、屈辱的な仕事を与えられようとしていたわけです。
恥を忍んで辞表撤回
いくら何でもそういうわけにはいかないので、その後必死で動き回り、なんとかその会社をカリフォルニアの新興企業に売却することに成功し、尻ぬぐいはできたわけですが、このままおめおめと日本には帰るわけにはいきまません。そう思って、アメリカで転職先を探しました。
転職先が見つかるまでの一カ月は私の人生にとってまさにどん底の毎日でした。ようやくカナダの大手通信機メーカーからバイスプレジデントとしての採用が決まったときは心底ほっとしました。
しかしいざ引っ越す直前まで行ったのですが、会社の内情を調べてみると、内部でもめていることがわかった。
ここには就職できないとあきらめましたが、もうこれ以上職探しの時間もないし、3人の子供の教育問題は待ったなしでした。ですから、恥をしのんで伊藤忠に電話したのです。
「あの辞表、撤回できますか」。
我ながらよく言えたものだと思いますが、それくらい切羽詰まっていたのでしょう。幸い、伊藤忠側も新分野に挑戦中で、人材が足りなかった。「戻りたいなら、戻ってきなさいよ」と言われて、無事伊藤忠に戻れました。47歳の時です。