三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第5回は、学校に通う「本当の意味」を考える。
知識や情報を蓄えないと
思考力は育たない
東大合格請負人・桜木建二によって作られた東大専門コースの前には2人の生徒、早瀬菜緒と天野晃一郎が現れた。早瀬は「頑張れる人になりたい」、天野は「考えすぎて行動に移せない自分を変えたい」と打ち明ける。
「自分はグズでノロマだ」と嘆く2人を前に、桜木は「そうだな」と断言したうえで「お前たちだけがグズでノロマなわけじゃない。子どもはみんなそうだ」と説く。
たとえ百獣の王・ライオンであっても、生まれたての状態で放置されればあっという間にハイエナの餌食になってしまう。生き抜くための情報を親元で蓄えることで初めて、ライオンは独り立ちできるのだ……と。
同じライオンでも「獅子の子落とし」とはまるで対照的な例え話だが、情報なくしては何もできない。
よく、知識の詰め込みではなく思考力を高めよう!と耳にする。しかし、満足な思考の源泉となる情報(=知識)は十分に行き届いているだろうか。あるいは、その思考のゴールは共有されているのだろうか。
Xの投稿ではあるが、このような話を目にした。
ある学校で「時間とは何か」をテーマに話し合う授業が行われた。しかし、「時間とは何か」を話し合う以前に、時刻(時間)の足し引きすら理解ができない子どもたちもいる、といった趣旨だった。
思考力はもちろん大切だと思う。ただ、思考を作るのは知識だ。
学校で「一般的に正しいとされている知識」を学ぶことは
社会で他者と関わり生き抜くための土台になる
多様な進路、学び方が唱えられる中で、「学校に通わなくてもいい」そんな意見を耳にすることもある。
だけど、学校の勉強は侮れない。特に、一見すると自学自習で補完できそうな「知識」学習にこそ意味があると思う。
学校では知識の中庸を教えてくれる。あえて嫌みな言い方をすれば「一般的に正しいとされている知識」だ。
その知識が正しいか正しくないかは、この際問題ではない。そもそも知識が「語られる」ものである以上、絶対的な正しさなど存在しない。作中のライオンの例にしても、「生存のための情報」と「実際に生存できるか」は全くの別問題だ。
数字の存在を知らずに四則演算ができないのと同様、知識なくして思考はできない。よりハイレベルな思考のためには、よりハイレベルな知識が必要だ。
そして何より、学校で学んだ共通の知識を理解していれば、他者と対話できる。その対話は単に同調だけとは限らない。対立かもしれないし、あるいは修正かもしれない。論点が明確になり、互いに思考のプロセスを共有できるからだ。
SNSでお互いの意見をフェイクニュースだと罵り合う人たちの間に、共通する「知識」はみられない。共通する知識の出発点がないから、いつまでも平行線をたどる。どこからきたのかよくわからない「知識」をもとに、無限の思考を重ねている。
当然、絶えず情報はアップデートされ、「一般的に正しいとされている知識」も変化し続けている。重要なのは以前の知識に固執することではない。以前の知識と、現在の知識を「思考」によってリンクさせることだ。
この先、教科書に書いてあることが間違いだったとわかる(あるいは、間違い「になる」)ことだってあるだろう。その時に、その「間違い」に対して自分なりの価値判断を下せるくらいの知識は身につけていたい。それが、大学へ通う者としての私なりの矜持だ。
そうでなければ、歪(いびつ)な知識が自らの身を滅ぼす、まさに「獅子身中の虫」になりかねない。