三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第3回は「大学へ行く意味」を考える。
将来への漠然とした不安と、無限の選択肢…
「とりあえず偏差値の高い大学を目指す」は合理的
龍山高校の理事に就任した東大合格請負人・桜木建二は全校集会で東大専門コースの設立を宣言する。突然の出来事にポカンとする生徒たちを、「甘ったれの根性なし!」と罵倒し、「意味なんて考えるな、東大をめざせ!」と叱咤(しった)する。しかし、生徒は冷めた表情で「一人でキレてバカみたい」とつぶやいた。
そもそも、大学へ進学する意味とはなんだろう。
「大学へ合格することが目的化している」との指摘は古くからある。教育産業にその風潮が根付いていることが原因のようにも感じるが、これは卵が先か鶏が先かの議論でしかない。
理想の職業に就くために大学へ行くのだ、という意見が聞こえてきそうだ。
では、大学は就職までの通過点なのだろうか。こうなってくると、また新たな疑問が浮かぶ。
就職とは、なんの意味があるのか。
これを繰り返すと、果てには「人生とは何か」「幸福とは何か」という答えようのない無限ループに入り込んでしまう。受験生なら誰しも、自分がなんのために勉強をしているのか思い巡らせた経験があるだろう。
日本史・世界史の論述問題で、ある出来事の「意味」を問われた時は、100年以上あとの視点から考えると良いと教わった。そうであるならば、受験生にとって「大学」「就職」「人生」に納得のいく意味を見出すことは不可能に近い。経験すらしていないからだ。
過剰な情報量の中で生まれてくる、将来に対する漠然とした不安と、多様化する無限の選択肢。どう転んでもいいように、とりあえず偏差値の高い大学を目指すというのは、むしろ合理的だ。
その意味で、「東大へ行くのに理由なんかいらない!」「東大に行く意味なんてない!」と割り切った桜木には、すがすがしさすら感じる。
「夢」を掲げて熱中する経験は
結果に関わらず必ず役に立つ
一方で、高校生のうちから将来の姿を明確に定め、それに向けて努力を重ねている人たちも当然たくさんいる。例えば、士(師)業を目指す人たちだ。
あるいは、社会に向けて「夢」を掲げて活動している人たちもいる。私はこの呼称はあまり好きではないが、「課外活動」と言われたりする。私は高校生の時、主に生徒会関連の複数の学生団体に関わっていた。その縁で、各分野で活躍する同世代と交流する機会をいただいたことがある。
彼・彼女らは国内外の研究室に所属していたり、学生団体・企業・NPOを牽引していたりする、同世代のトップランナーであった。
そこで出会った同世代の人たちは、「大学へ進学するという選択肢もあるよね」と語る。大学進学を夢を実現させる1つの選択肢として捉えているのだ。
「現実はそう甘くはない」「高校生だから応援してるんだ」高校生の活動にはそういった意見がつきものである。もちろんそれはその通りだ。高校生の活動で社会が変わることはめったにないし、その活動で将来生計を立てていく人などごくわずかだ。
けれども、それらの端くれにいた者としては、活動に対しては「1人で熱くなってバカみたい」と冷笑的にならないでほしい、と強く願う。なぜなら、例えその活動を通じて得られた「結果」が思うようなものではなかったとしても、活動の「過程」は受験勉強では得られないものだからだ。
一切の支えがない状態から、理念を定め、周囲と協力し、時にぶつかり、社会に貢献するため小さな目標を少しづつ達成していく。その「過程」こそは、仮に道半ばで他の進路へ進むとしても、必ず役に立つと信じている。