アルヴェーグ式モノレールに
魅せられたもうひとりの人物

 犬丸は当時、ホテル経営者ならではの問題意識を持っていた。1952年に羽田空港が日本に返還され、欧米航空会社が相次いで国際便を就航したが、道路渋滞がひどく、羽田空港から新橋の帝国ホテルまでの約13キロに、パンフレットには40分とあるのに2時間近くかかることもあったという。

 今後は日本人の航空機利用も増えていくことが見込まれた上、1959年に東京オリンピックの開催が決まったことで、都心と羽田空港を結ぶ空港アクセス路線の整備は急務となった。犬丸、鮎川はアルヴェーグ式モノレールを新橋~羽田空港間に導入する計画を具体化していく。なお新橋は帝国ホテルの最寄り駅のひとつである。

 アルヴェーグ式モノレールに魅せられたもうひとりの人物が当時、名古屋鉄道副社長だった土川元雄(後に社長、会長)だ。土川は1957年、西ドイツケルン市郊外に完成したばかりの試験線を試乗し、優れた性能と、安価な建設費、維持費に注目した。

 1960年に開園したラインパーク(現・日本モンキーパーク)は、最寄りの犬山遊園駅と1キロ以上離れており、丘陵地で道路状況は悪かった。そこで土川はアクセス路線としてアルヴェーグ式モノレールの導入を決定。1962年3月に「ラインパークモノレール線(1980年にモンキーパークモノレール線に改称)」を開業した(2008年廃止)。

 名鉄は東京モノレール設立にあたり、出資や社員の出向に加え、先行して開業したラインパークモノレール線で運転士の養成を請け負うなど積極的な支援を行った。また犬丸の経営する帝国ホテル本館は、建築家フランク・ロイド・ライトが設計した歴史的建造物だったが、1968年の建て替えにあたり、ロビー部分を名鉄の経営する博物館明治村に移築保存した。これもモノレールが生んだ縁のひとつだ。