国が総力戦体制を強めるなかで
「被扶養者」制度は創設された

 そもそも、「被扶養者」は、太平洋戦争開戦の翌年に行われた1942(昭和17)年の健康保険法の改正で導入されたものだ。

 当時の日本は、東アジアでの主導権を握るために、急激に、そして永続的に人口を増加させるという国策がとられていた。1941(昭和16)年1月に閣議決定された「人口政策確立要綱」には、1960(昭和35)年に内地人口を1億人にするという目標が記されている。また、目下の戦争を遂行するために、健康な兵士や労働力を確保することも急務とされた。

 一夫婦につき平均5人の子どもを持つことが目標とされ、そのために出産年齢の女性の就業を抑制する方針が取られていた。「産めよ増やせよ」のスローガンのもと、女性(妻)の役割は子どもを産み、育てることとされ、男性(夫)に扶養される存在になっていった。

 健康保険をはじめとする社会保険も、総力戦体制を後押しする内容に改正され、1940(昭和15)年4月に家族の医療給付が任意給付としてスタートする。被保険者に生計を維持されている家族(世帯員)が病気やケガをした際に、その医療費の一部が補給金として給付されることになり、被保険者が徴兵された場合も、家族の医療費の補給が行われることになったのだ。

 この家族給付は、1943(昭和18)年4月に法定給付となり、この改正で給付を受けられる世帯員を「被扶養者」と呼ぶことが決められた。同時に「配偶者分娩費」も創設され、夫に扶養される妻は保険料の負担なしで、健康保険から給付を受けられる仕組みが誕生したのだ。

 戦時下で国の人口増加策を後押しする形でつくられた「被扶養者」制度は、戦後の高度経済成長期になると、企業が社会保険料を負担せずに安く使える労働力を確保するシステムとして定着していくことになった。

 だが、制度の創設から約80年が経過し、家族のあり方も雇用形態も大きく変わった今、「被扶養者」制度は就労を妨げるやっかいな存在になっている。

 2016年以降、短時間労働者の社会保険制度は徐々に整備されてきたものの、新たに106万円という「年収の壁」がつくられたことで、これまで以上に労働時間を短縮する動きが労使ともに見られる。

 いくら国が適用拡大のための法整備を行っても、保険料なしで社会保険に加入できる「被扶養者」という制度がある限り、扶養の範囲内に労働時間を抑えようとする人はなくならないだろう。

 本来、社会保険料は、その人の経済的な負担能力に応じて決められるものだ。職場も、収入も同じ労働者なら、納める保険料も同額のはずだ。だが、現状では、本人の働き方に関係のない、夫などの家族の職業によって、短時間労働者の社会保険の負担は大きな差が出ている。

 こうした矛盾を解消し、本当に労働者を守る制度にするためには、「収入の壁」をなくさなければならない。そのためには、少しでも収入のある配偶者は「被扶養者」制度から除外し、所得に応じた保険料を本人が負担するといった大胆な見直しも検討する必要があるのではないだろうか。

参考文献:「健康医保険法の歩み その制定と改正の経緯」(健康保険組合連合会)