心理学の世界とビジネスの世界の架け橋になる

 部下の話を傾聴する方法について小倉さんの話を伺ったが、上司自身も多忙を極め、日々の悩みが絶えないビジネスパーソンである。経営層や部下に上司としての存在価値を求められ、それに応えるための仕事に追われて、傾聴どころではない状況も散見する。

小倉 上司が部下の話を傾聴できるようになるには2つの条件があります。

 1つ目は、上司自身もネガティブな感情を誰かに聞いてもらうこと。だから、課長は部長に、部長は役員に、役員は社長に、社長は外部のカウンセラーに傾聴してもらってください。ネガティブな感情を吐き出せれば、エネルギーが湧き、今度は自分が部下の話を傾聴できるようになります。また、ネガティブな感情を吐き出すとともに、褒めてもらうことも大切です。上司である自分が褒められれば、部下を褒められるようになりますから。

 2つ目は余裕を持つこと。「自分はありのままの姿で愛されている、受け入れられている、必要とされている」という感覚を持つことです。そのためにはどうすればよいか? “ニワトリが先か、卵が先か”みたいな話ですが、1on1で部下の話をしっかり聞くことです。うまく傾聴できると部下から認められた気持ちになって、上司のなかに余裕が生まれます。

 私は、社長をしていた時代、いつも厳しい口調で部下を追い込んでいたので、「部下から嫌われているに違いない」と思っていました。それで、自分の会社に居場所がないように感じることもあったのですが、部下と1on1を通してわかり合えたときに、居場所ができた気がして、気持ちに余裕が生まれたのです。それから、1on1での傾聴もうまくいくようになりました。

 部下が「あぁ、自分のことをわかってもらえたんだ」と思った瞬間、上司と部下の関係は劇的に変わります。極論を言えば、それ以外は何もいらない。お互いに力がふっと抜けて、エネルギーが湧いてきますから。1on1は部下を育てるためのものだと思われがちですが、実は、1on1で救われている上司がたくさんいます。上司も部下も一緒に育っていく――うまく機能している1on1はそういったものです。

 職場全体が良好であるためには、上司である管理職の健全なメンタルが欠かせないのだ。1on1を行いながら、それがしっかり実践できている企業は多いのだろうか?

小倉 メガベンチャーといわれる企業のなかには、トップが1on1の重要性を理解している企業が多いです。1on1の先駆者であり成功事例として語られることの多いヤフー(現・LINEヤフー株式会社)では、「(社長の)私自身が、毎週、1on1を実施する」と、トップが1on1の導入を率先しました。役員全員が定期的に外でコーチングを受けるなど、管理職のメンタルケアも徹底しています。一方、JTC(ジャパニーズ・トラディショナル・カンパニー)といわれるような伝統的な日本企業では、成功事例はあまり聞こえてこないように思います。

 今年(2024年)、小倉さんの著書『すごい傾聴』が出版された際、書評のひとつに「ビジネス界で“追体験”という心理用語が使われたのは初めてだろう」というものがあった。カウンセリングの常識がビジネスシーンに採り入れられていくことで、企業におけるメンタルヘルスのあり方も変わっていくのではないか。

小倉 心理学に裏打ちされた傾聴やカウンセリングの方法は、ビジネスの世界でかなり役に立つのですが、これまではほとんど採り入れられることがありませんでした。多くの人が、「心理学的なことは、コーチングを通じてビジネスの世界に伝わっている」と思い込んでいることもその一因でしょう。

 実際、心理学の世界とビジネスの世界の間には分厚い壁があって、情報が自由に行き来している状態ではありません。その点、私は、現在は心理学を専門としていますが、ビジネスの世界で長く生きてきた人間です。ですから、カウンセリングの場で使われている知識のなかでも本当に役立つと思う知識を、コーチングに転換せずに、ダイレクトにビジネスの世界に採り入れたいと思い続けています。『すごい傾聴』が世に出て、私が役立つと思った知識を多くのビジネスパーソンに受け入れられて、とてもうれしいです。心理学の世界とビジネスの世界の架け橋になること――それが私の役割ですから。