昨年、90歳を迎え穏やかに過ごしている上皇陛下。しかし、皇太子時代は、自身の運命と置かれた環境に苦悩していたという。知られざる上皇陛下の皇太子時代のエピソードを紹介しよう。※本稿は、井上亮『比翼の象徴 明仁・美智子伝 上 戦争と新生日本』(岩波書店)の一部を抜粋・編集したものです。
火災に見舞われた皇太子に対し
三笠宮は「国民に思いを馳せよ」
1950(昭和25)年の元日、読売新聞に「皇太子よ國民と共に」と題する三笠宮(編集部注/三笠宮崇仁。昭和天皇の末弟で明仁皇太子の叔父にあたる)の手記が掲載された。三笠宮は小金井(編集部注/東京都小金井市)の御仮寓所(編集部注/皇太子の当時の住まい)火災の2日後の12月30日朝に現場を検分しており、そこで思ったこととして次のように言う。
「国民の非常に多くは、こんどの東宮様と同じに着のみ着のままで焼け出された人たちか、あるいは海外から『いのち』ひとつでひきあげてきたひとびとであります。そして東宮様のばあいは書籍にせよ、ラケツトにせよ、またはタイプライターにせよまもなくお手にはいるでしようが、国民のなかにはこれからなん年働いたら戦前の生活水準にもどれるかわからない人たちが少くないと思います」。
三笠宮は明仁皇太子にこの火事のことを一生忘れないでほしい、と呼びかける。そして、焼け出された皇太子が当面の間は皇居の義宮御殿(編集部注/義宮は皇太子の弟、のちの常陸宮正仁)と清明寮(編集部注/小金井にあった学習院高等部の学生寮)で起居することになり、家族がともに暮らすべきだという持論に一歩近づいたと歓迎している。
三笠宮は皇族に特殊な「先生だか家来だかよくわからない――というより両方の性格を兼ねそなえた――人たちとの共同生活」はどうしても割り切れないと言う。
「こんどの火事によつてあたらしい生活様式に東宮様が移られることは、私にとつては非常に興味があることなのです」と、これを機に皇太子の「特別待遇」をやめ、その生活がより人間的なものに変わることを期待した。
バイニング(編集部注/バイニング夫人として知られるアメリカの作家。皇太子の家庭教師を務めた)と同様の主張であり、かつて述べた「日本の民主化には、まず皇室の民主化からはじめるべき」という考えにも沿った意見であった。このとき三笠宮は34歳。成年男子皇族ではもっとも皇太子と年齢が近く、その境遇と葛藤を理解しやすかったのではないか。
人の主たるものは
人々のサーヴアントたれ
同じ元日の東京新聞には、髪を七三に分けた制服姿の青年皇太子とバイニングが散歩する写真と記事が載った。