このころ明仁皇太子は学友とよく将棋をさした。短気を起こして投了したあと、「あの局は詰まっていなかった」とむしかえすことがあった。学友が「じゃあ、もう1回やろう」と言うと、「侮辱している」と怒り出すなど、手がつけられないほど荒れることもあった(*8)。

 この時期、バイニングは米国のストダードに皇太子の留学を相談する手紙を書いている。日本で皇太子の留学が議論されているとして、1年間米国の全寮制高校で過ごすとすれば、どのプレップ・スクール(寄宿制学校)がよいか推薦してほしいという内容だった。

 ストダードは東部、中西部など計6校を挙げた返書を送ってきた。しかし、6月になってバイニングは「計画は棚上げになった」とストダードに通知した(*9)。

 明仁皇太子の「外ヅラの悪さ」を矯正する試みの1つが3月17日になされた。日本に滞在していた英国の詩人エドマンド・ブランデン夫妻が離日することになり、常盤松の東宮仮御所で送別を兼ねた晩餐会が催された。

 ブランデンは小金井の寮でシェークスピアに関する講演をしたことがあった。皇太子は初めて、このようなパーティーのホスト役を務めることになった。

 晩餐にはバイニング、小泉信三夫妻、ブライス夫妻、野村行一東宮大夫、松平信子御教育参与や東宮侍従らが出席した。こういう席で「いつもは『イエス』か『ノー』とだけしかおっしゃらないことが多い」皇太子をバイニングは心配して見守っていた。

 皇太子は、はにかみがちではあったが、「16歳の少年としてはこれ以上望めないだろうと誰もが思うほど、いろいろお話しになった(*10)」という。

 バイニングと小泉はこの夜の皇太子のホストぶりを「ひいき目なしに」絶賛した。しかし、それはやはりひいき目ではなかっただろうか。自身の境遇に懊悩し、公の場でいつも仏頂面だった皇太子が一夜にして社交的な人間に変身するとは思えない。

 大人たちが押しつけた役割と期待に応えるため、必死の演技をしていたのではないか。皇太子はこういう処世を身につけた、青年らしくない青年に成長しつつあった。

*8 『知られざる天皇明仁』97頁

*9 高橋紘『人間 昭和天皇』(下)(講談社、2011年)210頁

*10 『皇太子の窓』358頁