三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第21回は「英語を学ぶ意味」について考える。
英語を学ぶ「本当の意味」は?
東大合格請負人・桜木建二は、現役合格を目指す天野晃一郎と早瀬菜緒に、勉強計画を指導する。「東大を目指すならばセンター満点を目標にしろ!」と檄をとばし、その中でも英語を最重要科目と位置付けた。
共通テストでは1000点満点中200点を、東大入試では440点満点中120点を占める英語は、確かに受験勉強における最重要科目である。
2020年度より小学校高学年からの英語教育が義務化され、早期習得に拍車がかかっていることからも、英語教育の重要性が高まっていることが伺える。
「もっと使える英語を!」という煽り文句や、「英語4技能(読・聞・書・話)」といった言葉をよく耳にするようになった。しかし、「英語を使う」ことに焦点を当てた英語教育は、「教育」として成立するのだろうか。
「使えるようになるために英語を学ぶ」という主張は「英語は日常的に使われるものだ」という前提の元に成り立つ。
しかし、いくらグローバル社会と言っても全員が毎日英語を使うわけではない。日々の生活は日本語で事足りる。
確かに仕事や旅行などで英語を使う機会は増えてきてはいるが、そもそもそのような機会に浴するのは、基本的には一定以上の学歴や年収を得ている人だけではないだろうか。
以前友達に言われた、「英語を『いつか使うもの』と思えるだけ贅沢だ」という言葉はわすれられない。
「グローバル社会」と聞くとなんだか世界中の人々が手を繋いでいるイラストが目に浮かぶ。しかし、グローバル社会は本当に万人を対象にするのか、今一度考える必要があるだろう。
そしてさらに、「教育」は「使う」ことを目的に設計するべきなのだろうか。「もっと日常で使える英語を!」という人はいるのに、「もっと日常で使える数学を!」と言った声や「もっと日常で使える歴史を!」なんていう人はいない。
数学を学ぶのは「数学という学習」を通じて論理的な思考力を身につけるためであり、歴史を学ぶのは「歴史という学習」を通じて因果関係の妙を理解するためだと私は捉えている。
もちろん個別の具体例については各々の意見があるだろうが、少なくとも計算を速くしたり、年号を覚えたりするためにこれらを学んだわけではない。
そう考えてみると、英語だけが、「英語」そのものを学習の目的としているような気がする。しかし、英語の学習で得られる能力は、決して英語を話すことだけではない。
「日本語での思考」が確立してこそ、英語習得の意味が生まれる
日本語と英語では文の構造が大きく異なる。文の構造が違うということは、自分の主張の組み立て方も違う。この意味で、日英両言語を理解できるということは、言ってみれば2つの視点から物事を見ることができることに等しい。
そこで重要なのが、英語を「2つ目の視点」にするための「1つ目の視点」すなわち日本語での思考がしっかりできているのだろうか、ということだ。
高校で英語を教える知り合いの教師はこう語る。
「確かに、英語の歌やアニメを見て耳や口を慣らしておくには幼少期が適切だ。けれども、いくら英語を幼少期に学んだからといって、肝心の伝える中身がちゃんとしていなければ意味がない」
英語教育の過渡期にあっては、「感覚的な英語」と「文法的な英語」の教育方法が混在し、小学校から中学校に上がるタイミングで挫折する人も少なくないと聞く。これでは、英語どころか日本語さえも疎かになりかねない。
幸か不幸か私たちの多くは英語を使わなくとも、衣食住に満足することができ、最先端に近い知見を得ることができる。
英語は決して受験の重荷ではなく、それを使う人にとっては他人との、使わない人にとっては自分の思考とのコミュニケーションツールなのだ。